■赤穂市立有年考古館のWebサイトへようこそ。当館は、兵庫県赤穂市にある入館無料の小さな考古館です。
 考古資料や民俗資料をたくさん展示し、体験学習もご用意しておりますので、ぜひご観覧ください!

文字:大文字:小
  • 文字の大きさを変えることができます(この文字の大きさで設定ください)
  • HOMEデータベース> 特別企画展「佐方渚果生誕110年」報告


    特別企画展「佐方渚果生誕110年」報告


     ここでは、平成24年9月28日(金)~平成24年11月12日(月)に開催された特別企画展報告として、展示テキストを掲載しています。


    出 生
     本名は恒一という。明治35年(1902)9月26日、赤穂郡坂越村鳥井で陶器商を営む「佐方屋」の店主で、奥藤家に勤めていた父の佐方卯八(元服名:竹松、号:烏白)と母さわの次男として生まれる。生家は安政6年(1859)に建てられ、老舗の商家であった。

    坂越に帰郷するまで
     大正4年(1915)3月に坂越尋常小学校を、大正6年(1917)3月に坂越尋常小学校高等科を卒業する。坂越尋常小学校時代は、毎年、学業優等により褒状を授かるなど、坂越村内でも優等生として知れ渡っていた。卒業後の進学については、父が勤めていた奥藤家(当時は酒造のほか銀行、大地主など多角的な経営をしていた)の大旦那から進学を薦められたが、まじめでかたくなな父に「人の世話になってまでの進学は反対」と言われて進学をあきらめ、大正6年(1917)4月に大阪逓信講習所に入学した。
     講習所では逓信士(現在で言う郵便業務)としての講習を2年間学び、大正8年(1919)8月には通信書記補として、神戸三宮郵便局に奉職した。大正13年(1924)に神戸三宮郵便局を退職して間もない頃、長兄の半次が亡くなった。恒一は、家督相続のため坂越に帰郷することとなる。

    恒一、表具師「渚果」へ
     当時の坂越では、昼間の商売仕事は女性の仕事であった。実家の陶器店でも、店は母のさわが実質的に切り盛りし、父は仕入れこそすれ、昼間は奥藤家に勤めていた。恒一は、今後の生計をどうするか悩み迷った。
     郵便局勤務の経験から勤め人には興味がなく、また長兄の半次が営んでいた代書には相当の顧客があったが、これにも一切興味を示さなかった。
     恒一は、自分の手先が器用で手仕事に向いていることを知っており、また同郷で表具師を営んでいた渡海洲蓬に、一種の憧れと尊敬を抱いていたため、表具師になる決心をした。そこで一念発起して赤穂郡上郡町(大正2年(1913)には町となっていた)の表具師であった村上官太郎の内弟子となり、昼夜を問わず師匠から手ほどきを受けながら、表具師としての修業を重ねていった。
     生来の真面目さと器用さで表具師の技を習得し、昭和5年(1930)には表具師として独立。店名を「佐方昭栄堂」と名乗った。「渚果」を名乗ったのも、この頃からと思われる。
     ちなみに恒一は「渚果」号を終生愛し、多用したが、堂名である「昭栄堂(しょうえいどう)」をもじって「梢影洞(しょうえいどう)」とも号し、特に愛用、重宝した蔵書には「梢影洞蔵書」を押印して使用していた。このように、洒落たことば遊びが好きだった渚果は、知人らとの文通等の時に「梢影洞」のほか「梢々辺人」などと呼び書きすることがあったり、こよなく愛した河原翠城の揮豪「求放心」にならい、自らの寝起きする部屋を「放心居」と称するなどしていた。
     表具師として独立し、少しばかり自由な身となった渚果は、藤江熊陽の『播州赤穂郡志』(1747年著)に魅せられた。郷土史に関心を持つようになり、郷土資料の収集に取り組むようになったのがこの頃である。また、坂越在住の表具師であった渡海洲蓬に様々な影響を受け、茶・華などを嗜む多趣多芸の域を拡げるようになった。

    戦争と家族
     昭和6年(1931)11月1日、渚果は、高野村の高橋まさのと結婚した。昭和10年(1935)11月27日に長女さよ子、昭和18年(1943)3月18日には次女千里が生まれる。渚果は表具師のかたわら、家業としていた瀬戸物屋(屋号:佐方屋)の主であったが、坂越の旧来の慣習どおり、仕入れは行っても店商売は妻のまさのに任せていた。しかし、昭和18年(1943)頃には戦争激化のため、江戸末期から営んでいた瀬戸物屋(屋号:佐方屋)は廃業を余儀なくされる。悲しいことは続くもので、昭和19年(1944)3月30日には次女千里が亡くなった。しかし、昭和20年(1945)6月21日には三女早苗が生まれ、明るい話題もできた。

    渚果、郷土史家へ
     昭和25年(1950)4月になると、坂越中学校の事務職員(書記)に奉職した。そして表具師として独立して以来、約20年間に及ぶ坂越を中心とした郷土史研究の集大成として、同年9月、郷土史年表『越浦年表』を完成させる。この年表は、昭和33年(1958)まで、補遺が続けられた。
     これ以後、渚果の郷土史家としての活動が始まる。渚果は、郷土研究に関する長年の成果を、小林楓村らの発行する『西播史談会会報』にはじめて投稿する。『西播史談会会報』第17号(昭和26年(1951)1月25日刊行)に「春蔭の手紙」「傘露の萩の句」「河原翠城の証文」が掲載されたのを皮切りに、次々と発表していく。
     西播史談会では、小林楓村をはじめ、松岡秀夫、平尾須美雄らと知り合い、また中央で活躍する柳田国男、今井啓一などと交流を広め、ますます研究活動に邁進した。「西播史談会」「赤穂歴史研究会」などの歴史研究団体に所属し、矢継ぎ早に研究論文を発表すると同時に、「赤穂新聞」「妙道寺季報」「士風時報」などの地方紙にも寄稿し、郷土の歴史民俗をやさしい文体で記述し、ひろく郷土の歴史を紹介した。連載ものの特別寄稿などもあった。
     また、昭和30年(1955)頃には大避神社の直選議員となり、昭和48年(1973)頃まで務めあげている。

    表具師としての文化財保存活動
    昭和35年(1960)3月、坂越中学校事務職員を退職し、表具師を再開し家業として専念することとなった。しばらくして表具師の資格試験制度がはじまったが、生来の負けん気に火がつき、自分の腕を試してみたい気持ちから、昭和42年(1967)9月1日、表具師の資格試験を受験した。
     試験は、今と同じく筆記試験と実務試験があり、渚果が表装した製作品が資格試験で認められ、試験に合格。表具師資格を取得した。さらに、昭和43年(1968)5月14日には技能試験を受け、一級表具技能士に認定された。製作品は終生大事にされ、現在も変色なく保存されている(今回展示)。
     また、赤穂市民美術展(現在の赤穂市民文化祭)が始まった頃には、表具師職人としての技を活かし、多くの出品作品の表装を手掛けたりしたほか、渚果が収集した郷土ゆかりの書画、墨跡などの表装し直しを行った。また、木戸門跡の礎石・道標の保存、「旧坂越中学校唱歌」「高徳さん数え歌」の作詞、坂越幼稚園園章デザインの公募採用(現在も使用)、郷土に関するパンフレット類の収集から古文献収集、古地図の収集と修復、古文書の解読と写し作業等々、多岐多様にわたる郷土資料の収集、保存に尽力した。
     昭和49年7月14日の赤穂歴史研究会の結成に際しては、松岡秀夫、山崎昭二郎、廣山堯道らといち早く参画し、同会の重鎮として活躍した。また、三木竹夫、牟禮芳雄、大西孜、奥藤研二、茶谷豊らと坂越歴史研究会(のちの赤穂歴史研究会坂越支部の母胎)を結成し、現在の坂越、そして赤穂市の文化財保護・研究活動の基盤を築いた。
     しかし、昭和51年(1976)3月23日、 脳溢血にて亡くなった(享年73歳)。

    学芸員のまなざし-佐方渚果を調査して-

    (1)佐方渚果の評価
     佐方渚果による郷土資料の収集・保存は「私財を投じて行った」という表現より、古くて貴重なものばかりではなく、普段、何気なく目にしているが後世には得がたいものに着目し、保存したと言え、その功績を讃えたい。渚果は、貴重な古文書、古地図など古文献を目の前にした時、散逸・消滅を憂い、「今やらねば誰がする、今しておかなけばやがては消え、忘れなくなってしまう」の一心で収集したのであろうが、それがパンフ、チラシの類は言うに及ばず、郷土に関するあらゆるものに及んでいるのである。
     家計の許す限り、家族の理解・協力のもと、将来のため、郷土のため、そして「郷土を愛し、郷土を学び、郷土を知り、郷土を誇り」うるものとなることを信じて、精力的に資料の収集・研究を進めた行為に感服する。渚果の収集した郷土資料は今では貴重な史料となり、例えば歴史博物館等で開催される展覧会にはなくてはならないものとなるなど、先見性のある高い識見により、高い評価を受けている。
    (2)渚果の人柄
     渚果は、昭和51年(1976)3月23日、脳溢血にて倒れた。しかし、心半ばにしたもの、残したものをご遺族が大切に整理・整頓され、いつでも貸出、貸与ができるようにしているばかりでなく、見事に渚果先生の遺稿集なども出版された。
     遺稿集に書かれている、渚果の人柄や気質等を紹介していきたい。
    越浦年表
     『越浦年表』では、序文を寄稿した松岡秀夫が「最近の郷土史界にあっては、中央の史家に関心のあるものばかり取りあげられて、郷土の歴史を築き上げた事柄であっても、中央学者のテーマに関連しないものはそれを捨ててかえりみない」「これは郷土史だ」と中央学会に反骨心をみせている。また、「(越浦年表は)坂越で起きた出来事を細大漏らさず載せてあって、坂越の歴史を知る上での貴重な資料となるものである」と讃えている。また「私の今日あるのは佐方さんに負うところが大きい」「私も蝶ネクタイが好きで馬が合った」とも記している(余談ではあるが、蝶ネクタイはいつも愛妻のまつののあつらえで、自慢げに愛用していた)。
     遺稿集の編者で、遺族でもある佐方直陽氏は「生来、几帳面な性格で、絶えず整理整頓に心がけ、物が散逸することを極度に嫌い、何物によらず大切に保存するようにした」「古き物への憧れは強く、一見不用と思われる事物についても、粗末にすることなく、記録、保管に努めた」「感受性が強く、四季折々の風物、行事等に深い関心を寄せ、ひとつひとつの出来事に一喜一憂し、素直に感情を表現した」「言語表現に表裏がなく、腹芸などは全くできない人」と評している。時には職人気質を持ち合わせた人物で「生涯純粋な生き方をした」「社交性に乏しく、気むずかしい人、偏人」更には「大の読書好き」「難解な文章もよく読みこなし」「手先の器用さは、抜群であった。本職の表具は勿論、日常の小道具づくりから修理に至るまで」とも記している。
     そして「こよなく坂越を愛し」「坂越の自然、言語、風物、行事、中でも坂越に対する愛着は極めて強く、坂越に関する資料は、むさぼるように収集し、どんな小さな事柄であっても、新しい事実を見つけた」と結んでいる。
    赤穂の言葉
     『赤穂の言葉』では、著者である渚果は「昭和8年頃から集めかけたもの」「方言ではなく、坂越で使われている言葉という意味で集める」「方言を研究するのではなく、集めたもの」と記している。編者の長女さよ子氏は、「亡父渚果が、趣味の郷土史の一環として、方言ではなく坂越の言葉として少しずつ収集し、一応草稿として形付けていました」「原稿を整理するうちに、忘れかけていた昔懐かしい言葉が次々とよみがえり、改めて、これを発願した父の心情が思われました」と後記に記している。
    赤穂茶人考
     渚果は生来の茶飲み好きで、岩崎、田淵、柴原、三木等の茶会によく出かけていたようで、『赤穂茶人考』をまとめあげるため、植田正夫(赤穂高等高等学校教諭)、炭田蓼庵(藪内流師範)に教示を受けている。編著の直陽はここでも「読書好きで、歴史関係の書物を愛読」「郷土の歴史に深い関心を抱く」「古文書や古い品物があれば、それ等を大切に保存し、読解したり眺めたりすることが何よりの楽しみ」「かなりこまめに物事を記録」「自分が生まれ育った坂越の地が大好き」「坂越の事となると大小を漏らさず書き綴っていた」と回想している。

    まとめにかえて
     以上の遺稿集は、原本、復刻とも本展で展示していますのでご覧ください。渚果先生の緻密で几帳面な面が読みとれ、比較・検討した努力の姿をよくよく見ていただきたい。その成果は、今日において本当に役立ち、大いに負うところがあり、恩恵を拝借しご理解できるものと確信しています。
     正に探求心の旺盛な先生で、郷土の赤穂、特に坂越をこよなく愛したことが、これらの展示で読みとれます。生誕110年展に合わせ、改めて郷土の魅力を見直していただくとともに、先生の真摯な研究姿勢を理解していただければ幸甚であります。
     ご遺族の家人の話では、「渚果が生前いつも常々言っていたことは、我が家は安政6年(1859)の建家で、その時の材木の材料が良いから、できる限り保存し大切にせなならん」が口癖であったと言います。また「墓は建てなくてよい。家運が傾いたり、転居した時は一番放置されやすい。それ故に、墓の代わりに小さな組立式の祭壇をつくり、盂蘭盆には床の間に飾り、お墓同様に祀ること。それもこれも先々代の半六じいさんからの言い伝えであるが、良いことであるからこれからも続けていきたい、とことあるごとに話していたことが懐かしく、今日この頃感心させられることであります。」という話が印象に残った。
     本企画展の調査を通じて、少しばかり私見を述べさせていただくなら、ご遺族の聞き取りから、渚果先生は晩年ご家族の愛に包まれた幸せ者であったと想像いたしました。それもこれも、誰もが残された遺品整理する時に、故人がなし得なかったもの、残していったものの事柄を、少しでも手助けする気持ちや志が芽生えることでしょう。今回、佐方直陽・さよ子夫妻が3冊の遺稿集を上梓され、それを拝見させていただいた中で、渚果先生の緻密で几帳面に記された足跡を紐解かれ、探り、そして成し遂げられたお二人の姿は、渚果先生と優劣つけがたい功績であると申し述べておきます。
     また、ご遺族の口から「父は口から入る物は全部好きであった。いわゆる口から入る物、つまりご飯などの食事もの、甘辛の酒、菓子類、煙草、お茶など何でも好きであった」と聞かされた時、そのあたたかい口調に家族愛が感じ取れました。家族の団らんが失われ、家族の語らいが希薄になりつつなる今日、あえて略年譜で家族の出生、結婚、死別を書き留めたのは、誰しも人生において喜怒哀楽を経験し、おそらく渚果先生も同じく経験されたであろうと想像したためでもあります。先にも述べたように、家族愛に満ちあふれ、きっと幸せ者であったに違いないと、あえてこの場に記した次第です。
     最後になりましたが、本展の開催にあたり、ご遺族の佐方直陽・さよ子夫妻をはじめ、関係各位に終始ご教示、ご協力をいただき、記して感謝申しあげ、心より厚くお礼申しあげる次第であります。

    【聞取者】
     佐方直陽、佐方さよ子、大西 孜
    【協力者】
     佐方直陽、佐方さよ子、大西 孜、枡田美和子、牟禮清美、牟禮宗弘、田川英生、久保昭臣、谷中蘭子、大浦祥一、大浦啓文、大浦福寿堂、(順不同、敬称略)
    【参考文献】
     『表具の事典』協同組合京都表装協会 平成23年4月23日
    佐方渚果遺稿 『越浦年表』他(遺稿復刻 佐方直陽) 昭和57(1982)年3月23日
     付録として、氏が『播磨』に投稿した論文を再録。
    佐方渚果遺稿Ⅱ「坂越の言葉」(遺稿復刻 佐方さよ子)
    『赤穂の民俗 その二 坂越編(二)』所収 昭和60(1982)年3月31日
    佐方渚果遺稿Ⅲ『赤穂茶人考』(29.8.13)(遺稿復刻 佐方直陽・さよ子) 平成7年(1995)3月23日


    イメージキャラクターの
    うにゅちゃんが説明します!

    学校関係や団体の方はご覧ください!

    ■赤穂市立有年考古館■

    〒678-1181
    赤穂市有年楢原1164番地1
    TEL・FAX:0791-49-3488
    午前10時~午後4時開館
    火曜日及び年末年始休館