松岡秀夫 略年譜
有年考古館設立者である松岡秀夫の略年譜です。
年 | 月 | 年齢 | 内 容 |
明治37年(1904) | 2月 | 13日 兵庫県赤穂郡有年村楢原1157番地に生まれる | |
明治43年(1910) | 4月 | 6歳 | 有年村立原尋常小学校入学 |
大正 5年(1916) | 4月 | 12歳 | 私立同志社中学校入学 |
大正 6年(1917) | 13歳 | 肋膜炎をわずらい、半年間休学する | |
大正 7年(1918) | 4月 | 14歳 | 同志社中学校より兵庫県立龍野中学校へ転入 |
大正 9年(1920) | 6月 | 16歳 | 龍野中学在学中に四高受験 |
9月 | 第四高等学校理甲入学 | ||
大正10年(1921) | 17歳 | このころ、仲間と陸上部を結成、砲丸投げをおこなう | |
大正12年(1923) | 3月 | 19歳 | 第四高等学校を卒業 |
4月 | 京都帝国大学医学部へ入学 | ||
昭和 2年(1927) | 3月 | 23歳 | 京都帝国大学医学部を卒業 |
4月 | 京都帝国大学医学部副手となる 医師免許取得 | ||
4月 | 15日 医師免許証が交付される | ||
9月 | 京都帝国大学医学部助手となる | ||
昭和 3年(1928) | 1月 | 24歳 | 姫路歩兵第三十九連隊へ入隊 即日除隊 |
6月 | 京都帝国大学医学部助手を免ぜられる | ||
7月 | 島根県立松江病院眼科部長となる | ||
昭和 5年(1930) | 6月 | 26歳 | 同退職 |
9月 | 京都帝国大学大学院へ入学 | ||
昭和 6年(1931) | 1月 | 27歳 | 京都帝国大学医学部講師となる |
昭和 7年(1932) | 3月 | 28歳 | 同退職 |
三重県津市立病院眼科部長となる | |||
5月 | 木部崎阿やと結婚(挙式5日後に兄が死去、松岡病院に帰ることとなる) | ||
6月 | 津市立病院を退職 | ||
7月 | 松岡病院を継ぎ、院長となる | ||
昭和 8年(1933) | 6月 | 29歳 | 医学博士の学位を受ける |
蓼風社を結成、本部を松岡病院内に置く | |||
昭和 9年(1934) | このころ | 30歳 | 結核にかかり療養する |
昭和10年(1935) | 31歳 | 長女、都 出生 | |
昭和14年(1939) | 35歳 | 長男、秀樹 出生 | |
昭和16年(1941) | 3月 | 37歳 | 有年文化協会の結成、会長となる |
昭和17年(1942) | 3月 | 38歳 | 有年村壮年団の結成、団長となる |
この年 | 有年村の遺跡標柱の建立 | ||
昭和21年(1946) | 42歳 | 公職追放の指定を受ける | |
昭和22年(1947) | このころ | 原小学校裏のはげ山の砂防工事で遺物を発見、埋蔵文化財の保存を決意 | |
このころ | 西野山1号墳が石取工事の際に発見される | ||
昭和23年(1948) | 4月 | 44歳 | 上郡町与井西山瓦窯跡の調査 |
昭和24年(1949) | 1月 | 45歳 | 次女、環 出生 |
昭和25年(1950) | 1月 | 46歳 | 相生市旧矢野荘内の踏査、荘園研究を開始 |
4月 | 有年考古館設立準備委員会を結成、代表者となる | ||
7月 | 有年考古館工事着工 | ||
8月 | 砂防工事により西野山3号墳の墳丘および排水施設が一部破壊される | ||
9月 | 有年考古館創立総会がおこなわれ、理事となる | ||
10月 | 有年考古館開館式 常任理事となる 44㎡の考古館 | ||
10月 | 1日付けで財団法人設立許可申請書提出 | ||
昭和26年(1951) | 4月 | 47歳 | 27日 財団法人有年考古館設立認可、同館館長となる |
兵教委学第16号の1の通知、兵庫県教育委員会指令第33号を持って許可 | |||
5月 | 3日~13日 上郡町西野山三号墳の学術調査 | ||
11月 | 22日 地文総第485号をもって兵庫県教育委員会所管から文化財保護委員会所管となるとの通知 | ||
昭和27年(1952) | 10月 | 48歳 | 『兵庫県西野山第三号墳』刊行 |
11月 | 兵庫県文化賞を受賞 | ||
昭和28年(1953) | 4月 | 49歳 | 姫路市へ転居 |
昭和36年(1961) | 4月 | 57歳 | 赤穂市蟻無山古墳群の墳丘測量調査を実施 |
昭和37年(1962) | 12月 | 58歳 | 【日本考古学辞典】に有年考古館が紹介される |
昭和38年(1963) | 4月 | 59歳 | 財団法人有年考古館理事長となる |
5月 | 53㎡を増築 | ||
12月 | 赤穂駅前の大同生命ホールで(財)有年考古館展を開催 | ||
赤穂市猪壺谷遺跡の調査 | |||
昭和40年(1965) | 61歳 | 赤穂市文化財調査委員長となる | |
昭和41年(1966) | 2月 | 62歳 | 赤穂市丸山で猪壺谷遺跡を発掘調査 |
8月 | 赤穂市丸山で猪壺谷遺跡を発掘調査 | ||
11月 | (赤穂市文化財調査委員会が赤穂市内を分布調査) | ||
昭和42年(1967)3~4月 | 8月 | 63歳 | 猪壺谷遺跡の調査 |
11月 | 兵庫県社会文化協会評議員となる | ||
昭和43年(1968) | 6月 | 64歳 | 山陽新幹線・中国縦貫道文化財対策審議委員となる |
6月 | 赤穂塩業資料館管理委員会委員に委嘱される | ||
昭和44年(1969) | 3月 | 65歳 | 有年史蹟を守る会を結成 |
上郡町の遺跡分布調査を実施 | |||
昭和45年(1970) | 4月 | 66歳 | 上郡町高田の住宅団地建設予定地で古墳(4基)が発見される |
5月 | 県の文化財対策審議委員を辞職 | ||
11月 | 文化財保護の功績により、文化庁長官より表彰される | ||
11月 | この段階で、市内の古墳165基、貝塚1基、縄文・弥生遺跡11ヶ所の埋蔵文化財調査を実施。 | ||
昭和46年(1971) | 9月 | 67歳 | 上郡町の史跡を守る会を結成、中山古墳群の保存運動を行う |
10月 | 西野山古墳群(中山古墳群)の2基が保存される方針となる(後に変更、協議継続) | ||
12月 | 中山古墳群の調査開始開始 | ||
昭和47年(1972) | 11月 | 68歳 | 中山古墳群11号墳を有年考古館に移築する |
12月 | 5次にわたる中山古墳群の調査を終了 | ||
昭和48年(1973) | 1月 | 69歳 | 赤穂市の第二次埋蔵文化財分布調査を終了 |
11月 | 西播地域皮多村文書研究会が発足、世話人代表となる | ||
この年 | 有年老人大学で「ふるさと有年の歴史」の講演を始める | ||
昭和49年(1974) | 6月 | 70歳 | 赤穂歴史研究会を結成し、会長となる |
昭和50年(1975) | 11月 | 71歳 | 文化財保護の功績により、勲五等瑞宝章を受賞 |
11月 | 考古学研究者らによって受賞祝賀会が催される | ||
昭和51年(1976) | 1月 | 72歳 | 赤穂市塩屋岩屋廃寺跡の調査 |
1月 | 松岡秀夫先生論文集の出版 | ||
3月 | 赤穂市立赤穂西小学校(鷏和)建設に伴う調査 | ||
5月 | 県立赤穂養護学校(大津)建設予定地で確認調査 | ||
7月 | 赤穂市上高野で銅鐸の鋳型片を発見する | ||
8月 | 赤穂市高野において群集墳の分布調査 | ||
10月 | 赤穂高校建設の土砂取り地において横穴式石室を発見、調査 | ||
昭和52年(1977) | 1月 | 73歳 | 赤穂市生島古墳の墳丘測量調査 |
3月 | 塩谷賞(個人・学術部門)受賞 | ||
4月 | 日本考古学協会会員となる | ||
5月 | 1日 有年考古館改築工事竣工、旧館に有年民俗資料館を併設する | ||
5月 | 西播流域史研究会により、有年考古館蔵品の実測作業開始 | ||
8月 | 赤穂市史編さん専門委員となる | ||
8月 | 赤穂市天和で確認調査 | ||
8月 | 上郡町立高田幼稚園建設に伴う試掘調査 | ||
昭和53年(1978) | 8月 | 74歳 | 上郡町立高田小学校運動場拡張に伴う調査 |
8月 | 赤穂歴史研究会名誉会長となる | ||
10月 | 赤穂市西有年馬路池の発掘調査 | ||
11月 | 赤穂市立原幼稚園建設に伴う発掘調査 | ||
昭和54年(1979) | 1月 | 75歳 | 山陽自動車道赤穂インター侵入路予定地で遺跡の確認調査 |
2月 | 上郡町立高田小学校改築に伴う試掘調査 | ||
4月 | 塩屋堂山遺跡の発掘調査団長となる | ||
8月 | 上郡町立船坂幼稚園建設に伴う試掘調査 | ||
10月 | 塩屋堂山遺跡の調査報告会を赤穂市民会館で開催 | ||
11月 | 赤穂市西有年北山で発見された横口式石槨墳の調査 | ||
12月 | 赤穂市西有年馬路池の発掘調査 | ||
赤穂市立原小学校運動場拡張に伴う発掘調査 | |||
昭和55年(1980) | 2月 | 76歳 | 赤穂市西有年与井谷口で積石塚を発見、発掘調査 |
3月 | 上郡町尾長谷西部木場の分布調査 | ||
5月 | 神戸新聞平和賞を受賞 | ||
7月 | 赤穂市立有年小学校の建設に伴う発掘調査を実施 | ||
8月 | 相生市陸池ノ上古墳の発掘調査 | ||
11月 | 赤穂市立原小学校の屋内運動場建設に伴う発掘調査 | ||
猪壺谷遺跡の発掘調査 | |||
昭和56年(1981) | 1月 | 77歳 | 赤穂市文化財保護審議会会長となる |
3月 | 上郡町金出地・奥・楠地区ほ場予定地の分布調査 | ||
4月 | 上郡町の遺跡分布調査を開始 | ||
7月 | 上郡町立赤松幼稚園建設に伴う発掘調査 | ||
8月 | 相生市入野窯跡発掘調査団編成、1・2号窯の発掘調査 | ||
8月 | 相生市大塚ハザ古墳の墳丘測量調査 | ||
昭和57年(1982) | 3月 | 78歳 | 赤穂市周世・楢原ほ場整備に伴う分布調査 |
3月 | 上郡町立高田小学校体育館建設予定地の発掘調査 | ||
3月 | 西播地域総括責任者であった『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』刊行 | ||
4月 | 上郡町の遺跡分布調査 | ||
5月 | 高田小学校体育館建設予定地で見つかった竪穴住居跡の保存決定 | ||
6月 | 旧赤穂高校校舎保存のため署名運動を始める | ||
7月 | 相生市スポーツセンター建設地の発掘調査 | ||
8月 | 赤穂市文化財保護審議会会長辞任 | ||
8月 | 相生市丸山古窯址群の発掘調査 | ||
8月 | 相生市緑ヶ丘二号窯の発掘調査 | ||
8月 | 入野古墳の実測調査。提瓶、メノウ耳環、管玉出土 | ||
10月 | 有年考古館で盗難事件がおきる | ||
12月 | 相生市福井池ノ下遺跡の発掘調査 | ||
昭和58年(1983) | 3月 | 79歳 | 赤穂市立資料館運営員会委員に委嘱される |
4月 | 上郡町立高田小学校プール・高田公民館建設に伴う試掘調査 | ||
4月 | 上郡町の遺跡分布調査を再開 | ||
5月 | 堂山遺跡の調査 | ||
5月 | 赤穂市周世ほ場整備に伴う分布調査 | ||
6月 | 赤穂埋蔵文化財調査会を結成、会長に選任される | ||
7月 | 相生市緑ヶ丘一の谷二号窯の発掘調査 | ||
8月 | 史跡赤穂城跡調査委員に選任される | ||
9月 | 赤穂市文化財保護審議会委員に再任される | ||
12月 | 相生市下土井遺跡の発掘調査 | ||
昭和59年(1984) | 1月 | 80歳 | 赤穂市周世入相遺跡の発掘調査 |
1月 | 俳句集『発掘日記』を出版 | ||
3月 | 赤穂市堂山遺跡の発掘調査 | ||
4月 | 上郡町の遺跡分布調査 | ||
5月 | 赤穂市御崎大塚古墳の発掘調査 | ||
7月 | 相生市西後明窯跡の発掘調査 | ||
8月 | 上郡町立高田小学校増築に伴う発掘調査 | ||
10月 | 史跡赤穂城跡調査委員に再任される | ||
10月 | 『兵庫県西野山第三号墳』報告書復刻される | ||
11月 | 姫路文化賞を受賞 | ||
12月 | 相生市西後明窯跡の発掘調査 | ||
昭和60年(1985) | 2月 | 81歳 | 有年在住有志による松岡秀夫傘寿祝賀会が催される |
4月 | 姫路市民芸術文化大賞を受賞 | ||
8月 | 30日 81歳で逝去 | ||
9月 | 『松岡秀夫傘寿記念論文集 兵庫史の研究』が刊行される | ||
平成元年(1989) | 4月 | 松岡秀樹氏により遺稿歌集『蟻無山』が刊行される | |
■赤穂市立有年考古館■
〒678-1181赤穂市有年楢原1164番地1
TEL・FAX:0791-49-3488
午前10時~午後4時開館
火曜日及び年末年始休館
※展示替のため臨時に休館することがあります