赤穂市の文化財関連施設(赤穂地区)
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国史跡 赤穂城跡
国名勝 旧赤穂城庭園
交通 JR播州赤穂駅から徒歩20分 JR相生駅から車約25分 山陽自動車道赤穂インターから車約10分 開園時間 9:00〜16:30(入園は16:00まで) 休園日 年末年始 12月28日〜1月4日 |
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ,慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものです。
城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2847m、面積は63711uに及んでいます。塁石、防壁、諸門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されませんでした。
居城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷がありましたが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治の廃藩置県後、城塞は惜しくも取り壊され、屋敷地は民有地となりました。
その後、三之丸に大正元年(1912)大石神社が建立、二之丸に大正14年(1925)山鹿素行銅像建立、本丸に昭和3年(1928)赤穂中学校が竣工されました。
しかし、城跡は昭和15年(1940)風致地区に指定、昭和27年都市公園の計画決定、昭和46年(1971)国史跡に指定され、さらに平成14年(2002)には旧赤穂城庭園が国名勝に指定され、現在も計画的に公有化と整備が図られています。
近藤源八宅跡長屋門
交通 JR播州赤穂駅から徒歩で約15分 山陽自動車道赤穂インターから車で15分 公開日 土・日曜日・祝祭日 (ただし、12月28日〜1月4日は休館) 公開時間 午前10時〜午後4時 入場料無料 |
【指定までの経緯】
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれ、昭和60年に赤穂城跡整備にため、その敷地と建物の公有化が図られました。
長屋門は、建物部材に残された痕跡などの現況調査から、江戸時代後期の長屋門の長屋部分の一部であることが明らかとなりました。赤穂城跡内に残された数少ない貴重な江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの源八長屋のみであることから、平成10年4月27日に「近藤源八宅跡長屋門」として赤穂市指定文化財に指定され、解体調査・発掘調査を行い、平成11年3月に復元整備が完了しました。
建物内部はその活用を図るため、公開されています。
【近藤家】
近藤源八正憲の養父近藤三郎左衛門正純(源八は三郎左衛門の弟の子)は、甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲の門人であり、刃傷事件をおこした浅野内匠頭長矩の祖父である長直の代に禄高千石の軍学師範・家老として仕え、長直が正保2(1645)年に赤穂に移封された際に、赤穂城築城の縄張設計を行ったことで功績のあった人物です。
源八自身も甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にありました。源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にありましたが、最初から義盟には加わりませんでした。
【調査と復原】
現在残されている長屋門は、部材の残存状況から18世紀以降に建て替えられたものと推察されますが、発掘調査の結果から基礎部分に大きな改変は認められず、源八時代の長屋門とほぼ同規模であったと考えられます。
復原修理に伴う解体調査では、柱に墨書された柱番号が発見され、当初19本の柱列があったことが判明し、大石良雄宅跡長屋門をはるかに凌ぐ総長21間半(約42.3m)の規模をもった長大な長屋門であったことが明らかとなりました。
長屋門の門部分は、周辺住民に伝えられた伝承から、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいに位置していたと考えられます。
【見どころ】
長屋門の長屋部分は4戸分に別れており、それぞれ下級武士の住宅に使われていたようです。現在残されている長屋部分は、その内の北端部1戸とその南隣りの1戸の北端の1部屋です。修復については、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の使用できるものは極力保存しています。
入口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせています。また、簀子野地天井は建築当時の姿を保っており、野外にある赤穂旧上水道の汲出枡とともに人気があります。