江戸時代の赤穂の歴史
教育委員会の発行する書籍『発掘された赤穂城下町』から、江戸時代の赤穂をめぐる歴史記述、年表を転載しています。書籍には絵図等もカラーで掲載しておりますので、是非ご購入ください。
池田時代の赤穂
慶長5年(1600)9月、池田輝政と福島正則の名で、播州赤穂仮屋(加里屋)中に禁制が出された。いわゆる徳川家康の禁制と言われるもので、濫妨狼藉、放火刃傷等、関ヶ原の戦後の混乱を鎮める目的で行われたものである。両氏は、播磨から摂津における同様の禁制をいくつか出している。同年の10月になると池田輝政は播磨一国52万石を与えられ、三河国吉田から姫路城に入った。輝政は三木城、船上城、高砂城、龍野城、平福利神城、赤穂城を支城とし、領内支配を固めている。赤穂城は、西の岡山小早川藩との境界であったことから重要視されて末弟池田長政が22,000石で配され、現在の赤穂城地に「掻上城」を築いている。掻上城は、土を掻き上げて築いた簡素な城とされているが、この名称は後世に記されたものと考えられ、絵図に若干の記載があるもののその詳細は不明である。このような中、慶長8年(1603)に輝政の二男池田忠継に備前28万石が与えられると、長政は備前国下津井に移り、赤穂城は支城としての役目をひとまず終えた。
慶長18年(1613)に池田輝政が死去し、赤穂は岡山藩の池田忠継領となるが、元和元年(1615)には忠継も死去する。忠継領のうち赤穂、佐用、宍粟は弟達に分与され、池田政綱が35,000石で入封した。池田政綱は、慶長16年(1611)に徳川家康より松平姓を受け、松平右京大夫と呼ばれた人物であり、この時、生駒親正の支配以来改めて赤穂藩が成立し、廃藩置県まで継続することになる。政綱は寛永2年(1625)に検地を行っている。
およそこの時期までは、垂水半左衛門勝重という人物が赤穂郡代として派遣され、赤穂を実質的に治めていた。垂水勝重の詳細は不明であるが、元和7年(1621)の『塩屋村年貢免状』に記名が認められることから、比較的長期間、赤穂を治めていたと推定されている。垂水勝重の時代には、慶長14年(1609)検地の実施、慶長18年(1613)掻上城の整備、元和2年(1616)赤穂上水道完成、元和7年(1621)加里屋大火後の町割整備といった、数々の大事業が行われた(町割整備については不確実)。
池田政綱は寛永8年(1631)7月に死去し、家が途絶えることになったため、池田輝興が35,000石で赤穂に入った。寛永2年(1626)に徳川家光から松平姓を賜り、松平右近太夫と呼ばれた人物である。輝興は寛永8年(1631)、掻上城内にあったと思われる藩邸に金の間を作り、曲輪に多門、隅櫓を、城内に馬場を築いたとされる。当時の状況は、池田政綱〜輝興時代の城地周辺を描いた絵図(『松平右京大夫政綱公御時代之絵図』)に詳しいが、掻上城周辺の記載は詳細でなく、また後世の描写であるため信頼性に欠ける。なお、輝興は寛永21年(1644)に検地を行っている。14年間と、比較的長期間にわたって行われた輝興の施政であるが、正保2年(1645)3月、輝興は内室を突然切り殺し、幼児に手負わせ、侍女2人を切り捨てたことで改易となった。これで赤穂池田藩は消滅し、赤穂浅野藩の成立となる。
浅野時代の赤穂
初代藩主である浅野長直は、戦国時代に名を馳せた浅野長政の三男長重(1588〜1632)の子であり、常陸国笠間53,500石の領主であった。長直は寛永9年(1632)の長重の死後、23年間にわたって笠間を治めてきたが、池田輝興の改易により突然の転封を命じられることになった。浅野氏の本家は、長政の長子幸長(和歌山藩)の系譜を引く光晟の広島藩であり、『久岳君御伝記』には、長直転封の理由付けの一つとして本家に近いことが挙げられている。長直は正保2年(1645)に赤穂に入り、慶安元年(1648)には赤穂城築城願を幕府に提出する。これは転封を命じられた際に徳川家光が築城の許可を内諾していたためで、その後に紆余曲折はあったが、赤穂城は寛文元年(1661)に無事完成した。なお、この間に召抱えられていた著名な軍学者、山鹿素行が二之丸虎口の枡形を変更したという伝承は有名で、近年の発掘調査でそれを示唆する遺構も見つかっている。長直はこの築城に際し、かつて掻上城の北にあった職人町の敷地を赤穂城跡三之丸の城地にするために一括移転させている。この移転先は、同じく長直が建立した浅野家の菩提寺、花岳寺の門前であった。花岳寺周辺の町割は、池田時代に長池であった地点を埋め立てたものであり、城下町が拡大していったことが絵図でも窺われる。城下町の拡大はこれに留まらず、東西惣門の建築、侍屋敷、町家の拡大整備、用水の再整備、寺院の建立など数多くの施策が展開された。
長直は寛文11年(1671)になると隠居し、その子長友が継いだ。しかし延宝3年(1675)に長友は死に、長友の子、長矩が跡を継ぐことになる。長矩は延宝8年(1680)、藩財政の窮乏を救う策として家老大野九郎兵衛のもとで初めて藩札の発行を行い、貞享4年(1687)には本丸に東西5間南北58間の馬場、二之丸に東西5間南北78間の馬場をつくっている。また、元禄3年(1690)に中洲の馬場を城西の片原町侍屋敷の西に移し、元禄7年(1694)には備中松山城請取りを行うなどした。なお、元禄13年(1700)という記載のある絵図によると、加里屋の町数は16町であり、町中惣道法36町余、家数510軒のほか裏借屋33軒、町方人口は4,913人(男2,456人、女2,457人)であった。(『赤穂加里屋町之絵図』)。後の宝永3年(1706)に作成された『加里屋明細帳』には加里屋の町方人口4,744人と記載されていることから(赤穂市1982)、この長矩時代、特に1700年前後が、赤穂城下町隆盛のピークであったと考えられる。
浅野時代における経済成長を促した大きな原因として、塩業政策の成功を挙げることができる。初代藩主長直が入封した正保2年(1645)の時点で、すでに塩田開発が行われていたことが判明しており(『播州赤穂三崎新浜村沿革略記』)、正保3年(1646)には姫路藩の塩田村から移住してきた塩民によって、東浜が干拓されつつあった。東浜は新浜村として成立し万治4年(1661)の時点で戸数61軒、人数417人であったものが、約50年後にあたる宝永6年(1709)には戸数189軒、人数1,214人に、さらに30年後の天保10年(1839)には戸数578軒、人数2,523人と大きく発展することになる。なお、当時の塩田は古式入浜であった。このような製塩業の発展のなか浅野氏は強制的な蔵米貸付けを行い、その代銀を市価の1.5倍程度で回収する御下米制度などを使って「浜人を完全に領主に隷属させた」(赤穂市1983)。『赤穂市史』の試算では、浅野時代当時の塩生産高は31,000〜41,460石程度と換算でき、53,500石の表高と併せて実際には8〜10万石程度の財政基盤をもっていたと推定している。
元禄14年(1701)3月、長矩は江戸城において刃傷事件を犯し、即日切腹、浅野家は断絶する。同年4月には赤穂城開城、旧浅野赤穂藩領は幕府領となり、代官石原新左衛門、岡田庄大夫によって統治された。城ならびに領内諸所の警護は、龍野藩脇坂安照の家中が在番した。翌年の元禄15年(1702)になると永井伊賀守直敬が下野国烏山(栃木県)より赤穂に入封した(33,000石)。永井氏は暫定的な政権として入ったものであるが、この期間に作られた史料として各町村の明細帳や町家主名とその町家規模を記した絵図などがあり、貴重な現存資料となっている。宝永3年(1706)になると、森長直が備中国西江原(岡山県津山市)より赤穂に入封し(20,000石)、以後廃藩置県にいたるまで12代続く森時代となる。なお、このとき赤穂藩の領地は著しく減少して現在の上郡町及び相生市の一部を含む範囲となり、赤穂市内では周世、横尾、原、牟礼東の4ヶ村が幕府領または他藩領となった。
森時代の赤穂
森長直は、織田信長に仕えた森蘭丸の子孫であり、蘭丸末弟忠政の子、長継の西江原藩を受け継いだ人物である。長直は安永6年(1777)、三之丸塩屋門前に博文館を建て、藩士の子弟を入学させている。その後は財政的に苦しい藩政となったため大きな変革は少なく、災害等に伴う飢人救済の記事が多く認められる。
53,500石あった浅野家に比べて、森家は20,000石と低い石高であり、家臣数の減少は、その生活を支える町方人口へも大きく影響を与えることとなった。こうした状況は『播州赤穂城下図』によく表れており、侍屋敷の区画には「明地(空地)」と書かれた区域が多く認められる。町割については、西惣門周辺にあった町家が田地となり、大蓮寺西側が畑地となった以外に地図上では変化がないが、町家1棟あたりの家族数が大きく減少していると考えられる。廣山堯道氏の記載によると、文政12年(1829)の加里屋における町方人口3,195人、家数585戸、竈数869基とされており、天保年間(1830〜1844)の町方人口3,080人、家数593戸、竈数810基となっている(赤穂市1983)。すでに示した元禄13年(1700)の町方人口4,913人、家数510軒(『赤穂加里屋町之絵図』)と比較すると、町方人口の減少にもかかわらず家数が増加していることから、各戸における家族数の減少が窺え、同居する家族構成に変化が表れていると言えるだろう。これについて『赤穂の民俗 加里屋・上仮屋編』では、「この戸数の増加は同居世帯が独立していったためであろう。また人口の減少分は、農・塩人口の減少が少なかったことから、町人人口のものであったといえる。上仮屋の西端の一筋、万福寺裏から塩屋惣門にいたる武家屋敷地は畑地化し、東惣門の南に位置する船入れも宅地となり、その北岸の武家屋敷もなくなった。城内の大身屋敷には、分割して家臣が居住した。町屋の空き家は、これまで同居していた者が独立してここに入ったと思われる」としている(中尾・廣山1988)。なお、寛永21年(1644)の町方人口3,000〜3,500人、竈数763基という数値は1800年代の比率とほぼ同一であり、逆に元禄期が異常と呼べる状況なのかもしれない。
さて、浅野時代の塩業についてはすでに述べたが、森時代にはより盛んとなり、江戸時代後期には西浜に約150町歩ほどの新塩田が干拓された。赤穂塩の主な販売先は江戸方面70%、大坂方面20%、赤穂周辺が10%であり、森時代初期の塩田面積は約200町歩で生産高は25〜30万石と推定され、幕末期には約350町歩で55〜65万石と考えられている(赤穂市1983)。江戸及び大坂では、赤穂塩問屋が株仲間をつくって独占的販売事業を展開し、大坂では真塩の専売に成功するなど大きな成果を収めた。しかし、こうした塩業隆盛による利益は藩財政に流れることはなく、城下町周辺における大地主の成長を促した。特に御崎の田淵家、塩屋の柴原家、坂越の奥藤家が有名である。前2者は塩田地主として成長し、後者は廻船業によって得た富によって土地を集積して大地主となった。廻船業は城下町東方にあたる坂越湾が西廻り航路などの一拠点として大いに栄えた。先述のように、文安2〜3年(1445〜1446)の『兵庫北関入船納帳』には、すでに坂越浦から兵庫湊への入船記録が認められている。さらに正徳6年(1716)以降は、肥前国田代(佐賀県鳥栖市)における年貢米22,000俵の対馬・大坂廻漕を一手に請け負うなど大きな発展を遂げており、現在、坂越には黒崎墓所(他所三昧・県指定文化財)と呼ばれる、全国各地の水夫が坂越で客死した際の墓があり、その隆盛を今も静かに物語る。
赤穂城跡、赤穂城下町跡の歴史年表
年 代 | 西 暦 | 事 項 |
文安2〜3年 | 1445〜1446 | 中庄(中村)、坂越浦から兵庫港への入船記録(『兵庫北関入船納帳』)。 |
享徳年中 | 1452〜1455 | 赤松満祐の一族、岡豊前守光景が加里屋古城を築く(『播州赤穂郡志』)。 |
文正元年〜文明15年 | 1466〜1483 | 岡豊前守光広が加里屋古城を構築する(『播州赤穂郡志』からの市史説)。 |
文明・長享年中 | 1469〜1489 | 加里屋北部の山麓から上町出屋敷に集落が移住。 |
延徳2年 | 1490 | 播磨六坊の一つ、永応寺が中村に建立される(赤穂デルタに建立された最初の寺院)。 |
明応〜永正年間 | 1492〜1521 | 塩屋高山山麓の集落が加里屋上町に移住する(『播州赤穂郡志』)。 |
享禄元年 | 1528 | 「享禄元戌子年民家今ノ壱丁目・出河原・弐丁目辺ニ出ル」(『赤穂城ヶ州伝来書』) |
天文元年 | 1532 | 大蓮寺を開山した察道が没する(これ以前に大蓮寺開創)。 |
永禄7年12月 | 1565 | イエズス会宣教師ルイス・フロイス坂越を訪れる。 |
天正2年 | 1574 | 万福寺が那波(相生市)から加里屋に移される。 |
天正10年3月 | 1582 | 羽柴秀吉が姫路から備中へ進撃するため、加里屋に新土手(姫路海道・後に百目堤)を築かせる。 |
天正10年 | 1582 | 本能寺の変。 |
天正14年 | 1586 | 生駒親正が伊勢国神戸から赤穂に入部する(6万石)。これ以前は宇喜多直家の所領か。赤穂藩が始めて成立する。 |
天正15年 | 1587 | 生駒親正は讃岐に移され、宇喜多秀家が配置される。 |
文禄3年〜4年 | 1594〜1595 | 宇喜多秀家、領内の検地を行う(『播州赤穂郡周世郷之内真殿村御検地帳』)。 |
文禄4年 | 1595 | 豊臣秀吉による播磨の太閤検地が行われる。 |
慶長5年9月15日 | 1600 | 関ヶ原の戦によって、宇喜多氏敗北。 |
慶長5年9月23日 | 1600 | 池田輝政と福島正則の名で播州赤穂仮屋中に禁制が出される(徳川家康禁制)。 |
慶長5年10月 | 1600 | 池田輝政が播磨一国52万石を与えられ、三河国吉田から姫路城に入る。 |
慶長5年 | 1600 | 池田輝政の末弟、池田長政が加里屋に在城する(2万2千石)。 |
慶長5〜7年 | 1600〜1603 | 掻上城が築かれる(初期)。 |
慶長8年 | 1603 | 輝政次男忠継に備前国28万石が与えられると長政は備前国下津井に移され(3万2千石)、池田輝政の家臣、垂水半左衛門勝重が郡代となる(知行500石)。 |
− | − | 垂水半左衛門:「池田輝政公ノ代官」、「屋敷尾崎村、身上5百石、赤穂郡代官也」(『赤穂郡主(守)護地頭代々覚』) |
慶長10年 | 1605 | 尾崎八幡宮、鳥撫村銭戸島から移される。 |
慶長14年 | 1609 | 池田輝政による赤穂の検地。 |
慶長14年 | 1609 | 現存資料『真殿村検地帳』『楢原村検地帳』 |
慶長16年 | 1611 | 池田政綱、徳川家康から松平の姓を受け、松平右京大夫と言われる。 |
慶長16年〜17年 | 1611〜1612 | 現存資料『播磨国絵図』 |
慶長17年 | 1612 | 垂水半左衛門:中村隼人組(2千石)に属する4百石取りとして名前が見える(『播備淡侍帳』)。 |
慶長18年 | 1613 | 池田輝政死去、赤穂は岡山藩池田忠継(輝政の次男)領(38万石)となる。 |
慶長19年 | 1614 | 大坂冬の陣。 |
慶長19年 | 1614 | 赤穂上水道の敷設工事が始められる。 |
慶長20年 | 1615 | 池田忠継が疱瘡にかかって死去。 |
元和元年 | 1615 | 池田(松平)政綱が平福(佐用)から赤穂に入封する(3万5千石)。赤穂藩が再び成立。藩邸を改め、大書院、広間、玄関、敷台、土蔵を築く。 |
元和元年 | 1615 | 大坂夏の陣。 |
元和2年 | 1616 | 赤穂上水道の敷設完了。 |
元和2年 | 1616 | 雲甫、随 寺開創。 |
元和4年 | 1618 | 坂越全焼(『播磨鏡』『播州赤穂郡志』)。 |
元和5年 | 1619 | 九郎右衛門ほか6名が漁労のため長崎大浦へ移住。 |
元和6年 | 1620 | 大坂城築城への大名助役が命じられる(〜1629)。 |
元和6年 | 1620 | 塩屋村で塩浜の検地が行われる。 |
元和6年 | 1620 | 現存資料『浜方播州赤穂塩屋検地帳』 |
元和7年9月28日 | 1621 | 加里屋大火。柏屋、泉屋の2棟を残して加里屋全焼し、中村へも飛び火。垂水半左衛門、はじめて町割を実施。 |
元和7年 | 1621 | 垂水半左衛門の記名(『塩屋村年貢免状』)が認められる最後。 |
寛永元年 | 1624 | 現存資料『寛永元年借屋(加里屋)村屋敷検地帳』 |
寛永2年 | 1625 | 池田政綱による赤穂検地。 |
寛永2年 | 1625 | 現存資料『塩屋村検地帳』『塩屋村年貢免状』『真殿村検地帳』 |
寛永3年 | 1626 | 平福の池田輝興、徳川家光から松平姓を賜り、松平右近大夫に任じられる。 |
寛永8年 | 1631 | 池田政綱死去。家が途絶える。 |
寛永8年 | 1631 | 池田(松平)輝興が平福(2万5千石)から赤穂に入封する(3万5千石)。藩邸に金の間、曲輪に多門・隅櫓、城内に馬屋を築く。 |
寛永16年 | 1639 | 現存資料『塩屋村下札』 |
寛永16年 | 1639 | 与七郎の一族16戸が伊予国青島へ移住。 |
政綱・輝興時代 | 1620〜1640 | 現存資料『松平右京大夫政綱公御時代之絵図』 |
寛永17年 | 1640 | 妙典寺(高光寺)、大津村から加里屋新町に移される。 |
寛永21年 | 1644 | 現存資料『加里屋村検地帳』、『播州赤穂加里屋村塩浜検地帳』 |
正保2年3月 | 1645 | 池田輝興、狂気の沙汰で改易となる。本家岡山藩主池田光政に預けられ、備前国邑久郡福岡村に幽居。 |
正保2年 | 1645 | 備中松山城主(5万石)水谷伊勢守勝隆が在藩し、目付代として幕府より津田平左衛門正重が任地する。 |
正保2年 | 1645 | 太玉五郎右衛門と網子22 人が長門国油谷へ移住。 |
正保2年 | 1645 | 浅野内匠頭長直が常陸国笠間(茨城県笠間市)より赤穂に入封する(5万3千5百石)。3代続く。 |
正保2年 | 1645 | 現存資料『浅野赤穂入封記録』、『浅野長直あて勘定衆書状』(浅野赤穂分家済美録) |
正保2年〜寛文7年 | 1645〜1667 | 現存資料『年々御侍屋敷其外色々御用定引覚』 |
正保3年正月24日 | 1646 | 浅野長直、近藤三郎左衛門正純に命じ、加里屋城鎮守愛后山社を創建。石材の採掘を始める。 |
正保3年 | 1646 | 塩田開発を目指し、姫路藩などからの御崎新浜村への移住がこの年以降行われる(『年代記』)。 |
正保3年 | 1646 | 戸島新田村の開発が進められる。 |
正保3年 | 1646 | 現存資料『播磨国郷帳』 |
慶安元年6月17日 | 1648 | 新城の築城願を提出、幕府許可が下りる。 |
慶安元年8月8日 | 1648 | 加里屋沖に普請場を設け、普請道具の調整を始める。 |
慶安元年11月15日 | 1648 | 勝軍地蔵秘法の修法により地鎮祭を行う。 |
慶安元年 | 1648 | 現存史料『塩屋村免状』 |
慶安2年正月20日 | 1649 | 赤穂城築城始まる。本丸東北櫓台の石垣築石開始。 |
慶安3年 | 1650 | 戸島新田村、集落成立。 |
慶安3年 | 1650 | 浅野長直、山鹿素行に対し、養子長澄(長賢)とともに兵法の師として礼をとる。 |
慶安3年 | 1650 | 現存資料『正保播磨国絵図』 |
慶安4年4月 | 1651 | 徳川家光死去。 |
慶安4年 | 1651 | 由井正雪、丸橋忠弥の謀反が露顕、長直は築城を確かめる伺書を提出、再度許可を得る。 |
慶安4年 | 1651 | 田町の一部を造成、屋敷地とする。 |
承應元年 | 1652 | 山鹿素行を禄高1千石で召抱える(1653年9月〜1654年5月まで滞在)。10月には二之丸門周辺の縄張を変更。 |
承應元年 | 1652 | 現存資料『三崎新塩浜村検地帳』 |
承應2年 | 1653 | 田町の一部を造成、屋敷地とする。 |
明暦3年 | 1657 | 現存資料『来栖村年貢免状』 |
万治3年 | 1660 | 五軒家、石ヶ崎集落開村。 |
万治4年 | 1661 | 現存史料『御崎新浜村百姓改帳』 |
寛文元年 | 1661 | 焼失した皇居造営工事のため赤穂藩、米22,797石、銀2,477貫余、金342両を支出。 |
寛文元年 | 1661 | 赤穂城完成する。 |
寛文元年 | 1661 | 現存史料『加里屋町検地帳』 |
寛文年間 | 1661〜1673 | 西廻り航路が開かれる。 |
寛文2年 | 1662 | 近藤三郎左衛門正純死去。 |
寛文4年 | 1664 | 現存史料『浅野長直知行状・知行目録』(寛文朱印留) |
寛文5年 | 1665 | 十五軒家、七軒家集落開村。 |
寛文6年10月3日 | 1666 | 山鹿素行、『聖教要録』が原因となり赤穂へ預けられる。 |
寛文7年 | 1667 | 唐船大土手の築造。 |
寛文9年3月14日 | 1669 | 山鹿素行「大石氏の茶亭に遊ぶ・・」(『年譜』) |
寛文11年 | 1671 | 浅野長直が隠居、長友が跡を継ぐ(50,000石)。 |
寛文11年 | 1671 | 現存史料『浅野氏分知記録』(浅野赤穂分家済美録) |
寛文12年 | 1672 | 洪水によって御崎新浜村の塩浜堤が4ヶ所切れ、13軒の家が倒れた。 |
寛文12年 | 1672 | 盤珪、臨済宗妙心寺の住持となる。 |
寛文13年 | 1673 | 現存史料『浜埋地覚』 |
延宝元年 | 1673 | 大雨のため、御崎新浜村の堤120間余が切れる。 |
延宝2年 | 1674 | 坂越村の人口2079名(『諸事控』)。 |
延宝2年9月 | 1674 | 大風高潮で海辺の堤が破損。 |
延宝3年5月 | 1675 | 大雨のために御崎新浜村の尾崎新川堤決壊、赤穂藩領内が大洪水に見舞われる。 |
延宝3年 | 1675 | 浅野長友が江戸で死去、長矩が跡を継ぐ(50,000石)。 |
延宝3年6月24日 | 1675 | 山鹿素行、赦免され、江戸に帰る。 |
延宝3年 | 1675 | 現存史料『加里屋町検地帳』 |
延宝4年 | 1676 | 近藤源八『前守令公御行業条目』を著す。 |
延宝7年 | 1679 | このころには、大坂で赤穂塩を取り扱う塩問屋が確立していた。 |
延宝8年 | 1680 | 藩財政の窮乏を救う策として家老大野九郎兵衛のもとで藩札の発行を初めて行う。 |
延宝8年 | 1680 | 藩札仕法を始める。 |
天和3年6月 | 1683 | 御崎新浜村で堤が切れる。 |
天和3年 | 1683 | 浅野長矩、勅使御馳走役を勤める。 |
天和3年〜貞享元年 | 1683〜1684 | 仙台藩の塩田開拓指導。 |
貞享元年 | 1684 | 浅野長矩、弟長広とともに山鹿素行に入門する。 |
貞享2年 | 1685 | 山鹿素行死去。 |
貞享3年7月 | 1686 | 御崎新浜村で堤が切れる。 |
貞享4年 | 1687 | 本丸に東西5間南北58間の馬場、二之丸に東西5間南北78間の馬場をつくる(『播州赤穂郡志』)。 |
貞享4年10月 | 1687 | 大雨、洪水のため城破損、侍屋敷22軒、足軽屋敷47軒、町家2,304軒がつぶれる。 |
元禄年中 | 1688〜1703 | 小広門村、洪水の難を逃れて中村に移り住み、廃村。大広門村、城下町の形成とともに枡形に入ってしまい、廃村(『播州赤穂郡志』)。両者ともに中村の北方にあった。 |
元禄3年 | 1690 | 浅野長矩中洲の馬場を城西の片原町侍屋敷の西に移す。東西5間南北100間(播州赤穂郡志』)。 |
元禄4年 | 1691 | 坂越村の人口2121名。 |
元禄4年〜元禄13年 | 1691〜1700 | 川端筋ができる。 |
元禄6年 | 1693 | 富くじが大流行する。 |
元禄7年 | 1694 | 浅野長矩の願いにより、弟長広(大学)に新田3,000石の分知が認められる。 |
元禄7年 | 1694 | 浅野藩による備中松山城請取り。 |
元禄10年 | 1697 | オランダ人6人坂越に寄港。 |
元禄11年 | 1698 | 2月に放火が連続して起こり、10月には上町辺りが93軒焼失。 |
元禄13年 | 1700 | 加里屋の町数16町、町中惣道法36町余、家数510軒、ほかに裏借屋33軒、人数4,913人(男1,456人、女1,457人)の記載(『赤穂加里屋町之絵図』) |
元禄13年 | 1700 | 現存資料『元禄備前国絵図』 |
元禄14年3月14日 | 1701 | 三代藩主長矩が、江戸城において刃傷事件を起こす。即日切腹、赤穂浅野藩断絶。 |
元禄14年 | 1701 | 大雨、洪水。城内外で浸水。 |
元禄14年 | 1701 | 現存資料『浅野長矩領知高書上』『浅野分家知行所覚』(浅野赤穂分家済美録)、『高反別并諸色指出帳』(鳥撫・真殿村)『坂越村免状』『新浜村諸色差出』 |
元禄14年まで | 1702まで | 現存史料『浅野家分限帳』 |
元禄15年9月 | 1702 | 永井伊賀守直敬が下野国烏山(栃木県)より赤穂に入封する(3万3千石)。1代のみ。大石邸は家老の篠原長兵衛に与えられる。 |
元禄15年12月15日 | 1702 | 大石内蔵助をはじめとする赤穂義士が吉良邸に討ち入る。 |
元禄15年 | 1702 | 赤穂上水道、木津の井堰から取水するように変更(浅野長直時代に高雄船渡に変更されている)。 |
元禄15年 | 1702 | 現存資料『元禄播磨国絵図・郷帳』『播州赤穂領御尋品々覚書』『永井直敬知行状知行状目録』『四反帆以上廻船之覚』『西有年村明細帳』『楢原村免状』『諸色指出帳』(木津井堰が上水の取水地となっている)『類族御改帳』(坂越村の切支丹関係文書)『切支丹類族御改書上ヶ帳』(塩屋村の切支丹関係文書) |
元禄16年3月 | 1703 | 近藤源八屋敷火事(『那波屋文書写』花岳寺蔵) |
元禄16年6月 | 1703 | 追手(大手)橋新たに架けられる。 |
元禄16年 | 1703 | 藩札を発行する。 |
宝永元年 | 1704 | 永井氏、御用銀の借り入れ。 |
宝永元年 | 1704 | 現存資料『永井氏時代赤穂城下町絵図』 |
宝永2年 | 1705 | 大洪水、高野村で堤切れる。 |
宝永3年 | 1706 | 現存資料『加里屋町明細帳』『中村明細帳』『塩屋村明細帳』『戸島新田村明細帳』『大津村明細帳』『木生谷村明細帳』『織方村明細帳』『鳥撫村明細帳』『真木村明細帳』『尾崎村明細帳』『新浜村明細帳』『坂越村明細帳』『南野中村明細帳』『北野中村明細帳』『砂子村明細帳』『浜市村明細帳』『高野村明細帳』『根木村明細帳』『目坂村明細帳』『木津村明細帳』『真殿村明細帳簿』『中山村明細帳』『有年町明細帳』『東有年村明細帳』『黒沢村明細帳』『西有年村明細帳』『楢原村免状』 |
宝永3年 | 1706 | 赤穂藩の塩田総面積207町3反5畝余。塩問屋東浜22軒、西浜7軒。 |
宝永3年 | 1706 | 森和泉守長直が備中国西江原(岡山県津山市)より赤穂に入封する(2万石)。明治廃藩まで12代続く。 |
宝永4年 | 1707 | 現存史料『原村明細帳』 |
正徳元年 | 1711 | 御崎新浜村の唐船煙役浜・大 浜を検地する。 |
正徳3年 | 1713 | 尾崎村で出火、300戸、蔵40棟が焼失。 |
正徳6年 | 1716 | 坂越廻船、田代米輸送を始める。 |
亨保元年 | 1716 | 現存史料『巡見村々明細書』 |
享保3年 | 1718 | 塩改(商品塩検査)仕法を通達する。 |
享保7年 | 1722 | 森長孝襲封。 |
享保8年 | 1723 | 森長生襲封。 |
享保9年 | 1724 | 坂越にオランダ船入港。 |
享保11年 | 1726 | 大洪水、家の流失50軒。 |
享保12年 | 1727 | 上水道の導水路、北野中で一部を石垣積みに改修。 |
享保12年 | 1727 | 他領米の領内流通を禁止する。 |
享保12年 | 1727 | 藤江熊陽(忠廉)、『播州赤穂郡志』を編む。 |
享保14年5月11日 | 1729 | 城内作事屋普請小屋より出火、旧大石屋敷類焼(『史蹟明鑑』)。 |
享保14年 | 1729 | 大風雨、浜土手、堀切れる。 |
享保16年 | 1731 | 幕府の札遣い禁止令解除に伴い、札遣いを再開する。 |
享保16年 | 1731 | 森政房襲封。 |
享保16年 | 1731 | 赤穂上水道の改修記録(木津取水部分)。 |
享保17年 | 1732 | 赤穂藩1匁札の似せ札取締り触書。 |
享保18年 | 1733 | 家中に5ヵ年の倹約令を出す。 |
享保18年 | 1733 | 赤穂上水道の改修記録(銅水路土堤、木津取水部分)。 |
元文元年 | 1736 | 洪水、堤切れ2,802間、流家64軒。 |
元文4年 | 1739 | 家中に再度5ヵ年の倹約令を出す。 |
寛保2年 | 1742 | 対馬の塩田開発指導。 |
寛保2年 | 1742 | 藩札の専一流通を命ずる触れを出す。 |
延享元年 | 1744 | 大風高潮、田畑19,469石被害。 |
延享2年 | 1745 | 大雨、堤切れ1,630間、田畑3,760石被害。 |
延享3年 | 1746 | 藩札の銀引替え、当分延期の触れ。 |
延享4年 | 1747 | 森忠洪襲封。 |
寛延2年 | 1749 | 洪水、堤切れ2,241間、流家48軒。 |
宝暦2年 | 1752 | 家中人口1,395人。 |
宝暦3年 | 1753 | よろず賃銀1割半下げを指示する。 |
宝暦5年 | 1755 | 赤穂藩10匁札の似せ札取締り触書。 |
宝暦6年 | 1756 | 市域22ヵ村の飢人2,565人に御救い麦等支給する。 |
宝暦8年 | 1758 | 家中に役所経費2割の削減と倹約分の借上げを行う。 |
宝暦8年 | 1758 | 赤松滄洲、藩医の兼任を解かれ、藩儒とは家中等の教育にあたる。 |
宝暦8年 | 1758 | 家中人口1,170人。 |
宝暦11年 | 1761 | 現存史料『横尾村明細帳』 |
宝暦13年 | 1763 | 赤松滄洲、隠居し、赤松蘭室が藩儒となる。 |
明和元年 | 1764 | 大雨、坂内17ヶ所堤切れ、流家、潰家多数、浜8ヶ所切れる。 |
明和2年 | 1765 | 在方商業を調査、許可業種・禁止業種を定める。 |
明和4年 | 1767 | 現存史料『新開浜御普請惣入用勘定帳』 |
明和6年 | 1769 | 森忠興襲封。 |
明和7年 | 1770 | 家中に5ヵ年の倹約と借上げを命ずる。 |
安永2年 | 1773 | 73・74両年、家中の知行削減の割増し額を提示する。 |
安永5年 | 1776 | 赤穂上水道の改修記録。 |
安永6年 | 1777 | 藩校博文館上仮屋に落成。博文館学範を制定する。大石長屋門等は中士以下の宅に充て、本宅は森藩国幣製造所に充てられる(『花岳寺仙珪和尚覚え書』)。 |
安永7年1月10日 | 1778 | 赤穂城本丸内屋敷出火、累代記録多く焼失(『森家累系譜』)。 |
安永9年 | 1780 | 森忠賛襲封。 |
安永9年 | 1780 | 家中に5ヵ年の倹約と借上げを命ずる。 |
安永9年 | 1780 | 塩の積引禁令。 |
安永9年 | 1780 | 物価高騰による家中困窮のため、借上げ中止。 |
天明3年 | 1783 | 飢人・難渋人計10,286人に飢え扶持を給する。 |
天明3年 | 1783 | 米価高騰し、会所で朝夕粥炊き飢人を救う。 |
天明6年 | 1786 | 領内凶作。無足給人・中小姓・徒士以下からの借上げを中止する。 |
天明7年 | 1787 | 楢原〜南野中村間15ヵ村の飢人1,953人に飢え扶持を給する。 |
天明7年 | 1787 | 根木村以下15ヵ村の飢人1,971人に飢え扶持を給する。 |
天明7年 | 1787 | 林田藩領民3,000人蜂起、赤穂藩、家中20人に待機を命ずる。 |
天明7年9月2〜8日 | 1787 | 司馬江漢、赤穂を訪れる(『江漢西遊日記』)。 |
天明8年 | 1788 | 飢人12,000人に飢え扶持を給する。 |
寛政元年 | 1789 | 家中に5ヵ年の倹約を命ずる。 |
寛政元年 | 1789 | 船持、木塩問屋へ正金取扱法を通達する。 |
寛政元年 | 1789 | 洪水、5,505石余被害、堤切れ3,467間、流家123軒、潰家154軒、溺死11人。 |
寛政元年 | 1789 | 洪水、168町6反余被害。 |
寛政2年 | 1790 | 去冬の洪水による飢人5,246人へ飢え扶持を給する。 |
寛政4年 | 1792 | 領内35ヵ村飢人1,990人に飢え扶持を給する。 |
寛政4年 | 1792 | 大風雨・大潮、城櫓ほか破損。土手363間、潰家238軒。 |
寛政4年 | 1792 | 家中に5ヵ年の倹約を命ずる。 |
寛政4年 | 1792 | 大坂の赤穂塩問屋に対し、赤穂問屋定法を定める。 |
寛政5年 | 1793 | 領内28ヵ村の飢人1,721人に飢え扶持を給する。 |
寛政7年 | 1795 | 赤穂藩、3ヵ年無足給人、中小姓からも借上げる。 |
寛政8年 | 1796 | 有年組村々の飢人500人に飢え扶持を給する。 |
寛政9年 | 1797 | オランダ船が坂越に入港。 |
寛政9年 | 1797 | 莚の座を開く、年に5〜7万枚。 |
寛政10年 | 1798 | 大土手1〜5番浜7町歩余を干拓する。 |
寛政11年 | 1799 | 百姓・日雇の働き方取締り通達。 |
寛政11年 | 1799 | 領内15ヵ村飢人1,000人余に飢え扶持を給する。 |
寛政12年 | 1800 | 塩・船問屋、扶持を加増される。 |
寛政12年 | 1800 | 東西浜方へ真面目な勤務と、団体交渉による賃銀闘争の禁止を通達する。 |
寛政13年 | 1801 | 上水道木津取水部分および塩屋口惣門橋・橋下の上水木樋を改修する(『役中諸事扣』)。 |
享和元年 | 1801 | 領内飢人1,870人に飢え扶持を給する。 |
享和元年 | 1801 | 森忠哲襲封。 |
享和2年 | 1802 | 赤穂上水道の改修記録(木津取水部分)。 |
文化2年 | 1805 | 伊能忠敬、市域を測量(第1回)。 |
文化4年 | 1807 | 森忠敬襲封。 |
文化6年 | 1809 | 大坂への塩の販売を専売制とする。 |
文化6年 | 1809 | 伊能忠敬、市域を測量(第2回)。 |
文化8年 | 1811 | 東沖手浜13軒前、小内方4軒前を干拓する。 |
文化10年 | 1813 | 伊能忠敬、市域を測量(第3回)。 |
文化10年 | 1813 | 江戸に対する差塩専売の計画を発表する。村役人・塩問屋・浜人など反対意見書を提出する。 |
文化11年 | 1814 | 差塩の江戸専売計画を撤回する。 |
文化11年 | 1814 | 他領船への塩の販売禁止を解除し、1割高に売ることを許可する。 |
文化11年 | 1814 | 田淵氏邸に藩主御成り。 |
文化12年 | 1815 | 城内出火あり。侍屋敷六軒並びに作事小屋木役所焼失(『新浜記』−田淵家所蔵文書)。 |
文化12年 | 1816 | 現存史料『御在所御家中諸席』 |
文化13年 | 1816 | 注文塩を専売制とし、5歩高売と定める。 |
文化14年 | 1817 | 銭島塩田10町歩を干拓する。 |
文化15年 | 1818 | 現存史料『有年宿絵図』 |
文政2年 | 1819 | 現存史料『鯔座年中取斗方覚』 |
文政3年 | 1820 | 上納金捻出のため、蔵元ら調達最合講を始める。柴原氏、江戸浜再起資金の藩からの返済を辞退する。 |
文政4年 | 1821 | 大坂への塩専売法を廃止する。 |
文政4年 | 1821 | 現存史料『塩直段口上』(赤穂塩流通の70%が江戸、20%が大坂、10%が赤穂周辺) |
文政5年 | 1822 | 大坂での古浜塩取引定法を通達する。 |
文政5年 | 1822 | 前川浜8町歩余干拓する。 |
文政5年 | 1822 | 本丸御殿の台所の水道枡を取り替える。 |
文政6年 | 1823 | 福浦村に2町8反2畝余の塩田できる。新開塩田の検地を行う。 |
文政6年 | 1823 | 御用金返済停止を触れる。 |
文政6年 | 1823 | 森左近ら御役御免となり、家老森主税を首班とする改革始まる。蔵元ら倹約を申合わせ、年賦調達講を始める。 |
文政7年 | 1824 | 東西塩田の約半数が石炭焚きを許可される。 |
文政7年 | 1824 | 森忠徳襲封。 |
文政7年 | 1824 | 正銀・他領銀札通用禁止の触れを出す。 |
文政8年 | 1825 | 町方人口3,195人。 |
文政11年 | 1828 | 大土手浜2町歩余を干拓する。 |
文政12年 | 1829 | 藩士、集団で蔵元・御用達に借金を強要する。 |
文政13年 | 1830 | 津軽より塩技指導者5、6人の派遣依頼がある。 |
天保元年 | 1830 | 大坂への古浜塩の販売を統制し、「古浜塩取締覚」「塩売方及船石数取締之事」を通達する。 |
天保2年 | 1831 | 塩業生産機構の統制令「浜業取締方申渡ヶ条書」「浜業取締覚」を通達する。 |
天保2年 | 1831 | 再び「古浜塩取締之事」を通達する。 |
天保3年 | 1832 | 大俵塩(差塩)3斗俵の専売制始まる。 |
天保3年 | 1832 | 浜方好景気のため祝儀を出す。 |
天保3年 | 1832 | 現存史料『森家分限帳』 |
天保4年 | 1833 | 石炭取引に関する定法できる。 |
天保4年 | 1833 | 難渋者70人に米1斗ずつ与え、また施行売りを行う。 |
天保4年 | 1833 | 藩、村方に対し17カ条の倹約規定を示す。 |
天保5年 | 1834 | 赤穂産製塩鉄釜・温釜を能登に移出する。 |
天保5年 | 1834 | 現存資料『播磨国郷帳』 |
天保7年 | 1836 | 赤穂藩、他借の返済延期を打出したため、銀主より大坂城代に訴えられる。 |
天保8年 | 1837 | 森忠徳、准后使御馳走役を拝命する。 |
天保8年 | 1837 | 飢饉で米麦高値。領内極難渋人7,400人余。流行病で1,347人死亡する。 |
天保8年 | 1837 | 現存資料『備前国郷帳』 |
天保9年 | 1838 | 対馬との塩取引の商談成立する。 |
天保9年 | 1838 | 東西浜人に浜掛御用金120貫目を賦課する。 |
天保9年 | 1838 | 大俵塩を対馬藩に販売し、新ルートの開拓をはかる。 |
天保10年 | 1839 | 現存史料『森忠徳知行目録』 |
天保11年 | 1840 | 戸島枡から百々呂屋裏大枡までの浚渫、底掘り。 |
天保12年 | 1841 | 領内の米・塩・酒以外の株仲間解散を命じる。 |
天保13年 | 1842 | 赤穂城本丸内の給水管を7間分新設する。 |
天保14年 | 1843 | 寺町付近で上水道の改修。 |
天保15年 | 1844 | 浜子・釜焚の出稼禁止を嘆願する。 |
弘化3年 | 1846 | 「岡売塩御定法之事」を定め、岡売塩問屋の復興を認める。 |
弘化3年 | 1846 | 廻船の取締令を通達する。 |
弘化3年 | 1846 | 蔵元に4,000両の融通を申し入れる。 |
弘化4年 | 1847 | 蔵元層、藩の融通他借の中止を嘆願する。 |
弘化4年 | 1847 | 塩業全般にわたる取締りが強化される。 |
嘉永2年 | 1849 | 柴原甚十郎ら5名の御用掛り蔵元を勝手御凌方御内用掛に任命し、藩財政の再建を任せる。 |
嘉永2年 | 1849 | 東西浜方への塩の生産・取引仕法につき通達が出される。 |
嘉永2年 | 1849 | 赤穂藩の借財27万両余となる(年間収入16,680両)。 |
嘉永4年 | 1851 | 大坂三塩問屋11軒は古組、新興塩問屋5軒は仮組を結成して、株仲間を再興する。 |
嘉永6年 | 1853 | 札座改革のため両替制限始める。 |
嘉永6年 | 1853 | ペリー、浦賀へ来航。 |
嘉永6年 | 1853 | 現存史料『森家分限帳』 |
嘉永7年 | 1854 | 加古川筋との塩取引を専売制とする。 |
嘉永7年 | 1854 | 赤穂藩札の正銀への引替えを求めての混雑を鎮める触書が出される。 |
嘉永7年 | 1854 | 藩札両替制限の触書が出される。 |
嘉永7年 | 1854 | 藩札につき2歩両替法出される。 |
嘉永7年 | 1854 | 赤穂藩札両替停止の触書が出される。 |
安政2年 | 1855 | 赤穂藩、2歩通用新銀札発行を決め、札座両替再開する。 |
安政2年 | 1855 | 赤穂藩、調達講銀割戻し延期を口達する。 |
安政2年ころ | 1855 | 加古川筋村々より、古浜塩直買の要望があり、新流通ルートが開かれる。 |
安政3年6月 | 1856 | 大石屋敷長屋一棟建替(『大石邸棟札』)。 |
安政3年 | 1856 | 現存史料『福浦新田免状』 |
安政4年 | 1857 | 大風雨、瓦納屋樹木吹き倒れ、高潮で堤10カ所切れる。南野中村で出火、13軒焼失する。 |
安政5年 | 1858 | 上水道の総間数改め。 |
万延元年 | 1860 | 赤穂上水道の改修記録(農神道から塩屋村までの大改修)。 |
文久元年 | 1861 | 米価高値につき、極難渋者へ白米安売りを行う。 |
文久元年 | 1861 | 赤穂上本丸御殿立替え、上棟式を行う。 |
文久元年 | 1861 | 藩兵の調練始まる。 |
文久2年 | 1862 | 森忠典襲封。 |
文久2年 | 1862 | 生麦事件。 |
文久2年 | 1862 | 三役所差配産物総取締役設置。 |
文久2年 | 1862 | 藩による赤穂塩専売制に踏み切る。『御産物改法下調十五カ条』 |
文久2年 | 1862 | 西川升吉ら、家老森主税らを暗殺する(文久事件)。 |
文久2年 | 1862 | 藩主帰国などのため、蔵元層に1万両の御用金を課す。 |
文久2年4月 | 1862 | 藩庁御殿建替。 |
文久3年 | 1863 | 丸山・御崎・唐船御台場普請につき触れを出す。 |
文久3年 | 1863 | 藩士一同の半知断行。蔵元・用達に1万両の融通を強要する。 |
文久3年 | 1863 | 河原駱之助の計画(塩専売再編成)を江戸で実施。 |
文久4年 | 1864 | 赤穂藩、鉄砲鋳立て銅等の供出を口達する。 |
元治元年 | 1864 | 幕府、第1次長州征伐を諸侯に命ずる。 |
元治元年 | 1864 | 赤穂藩、大坂京橋を警衛する。 |
元治元年 | 1864 | 西大土手浜2軒前を干拓する。 |
元治元年 | 1864 | 江戸産物会所によって赤穂塩の専売制が行われる(1865年まで)。 |
慶応2年 | 1866 | 第2次長州征伐始まる。 |
慶応2年 | 1866 | 赤穂藩、大坂伝法川水陸及び常吉新田御台場を警衛する(1868年まで)。 |
慶応3年 | 1867 | 朝廷、王政復古を宣言する。 |
慶応3年 | 1867 | 東沖手浜2軒前を干拓する。 |
慶応3年 | 1867 | 宿駅制度廃止される。 |
明治元年 | 1868 | 森忠儀襲封。 |
明治初年〜 | 1868〜 | 城内の三の丸及び二の丸後郭西部が士族、農民の田畑に分割される。 |
明治2年 | 1869 | 森忠儀が版籍奉還、赤穂藩知事となる。 |
明治3年 | 1870 | 赤穂藩、英商ヒュースより36,500両を借用。 |
明治4年 | 1871 | 廃藩置県。赤穂・岡山藩領は赤穂県、岡山県となる(赤穂県は姫路県へ編入→飾磨県へ改称)。 |
明治5年 | 1872 | 赤穂城廃城決定。 |
明治9年 | 1876 | 兵庫・飾磨・豊岡3県と名東県淡路を統合、兵庫県が成立する。 |
明治11年 | 1878 | 本丸藩庁は解体され、赤穂尋常高等小学校校舎として移築される。昭和3年9月尋常高等小学校改築までつづく(『花岳寺所蔵棟札』)。 |
明治14年 | 1881 | 廃藩置県により赤穂城廃城。 |
明治14年 | 1881 | 花岳寺住職釈種仙珪が旧大石邸長屋門購入保存。 |
明治16年 | 1883 | 花岳寺釈種仙珪が大石神社創設之儀願を提出。 |
明治18年〜 | 1885〜 | 城郭隅櫓が荒廃により、次々と取り壊される。 |
明治19年 | 1886 | 大手門枡形石垣が改変される。 |
明治25年〜明治27年 | 1892〜1894 | 明治25年千種川の洪水による災害復旧と、千種川流路変更工事のため、二の丸門(虎口)から清水門までの石垣を取り去り築石として使用される。 |
明治30年 | 1897 | 大石神社建立の目的のため大手門枡形の南塁をくずし、北方多門をうずめて改造する。 |
明治32年 | 1899 | 「大石神社創立之儀願」が兵庫県知事に提出される。 |
明治38年 | 1905 | 塩専売制施行。 |
明治40年 | 1907 | 大石旧邸保存会発足。 |
大正元年 | 1912 | 大石神社建立される(大石神社遷座祭執行)。 |
大正9年 | 1920 | 中村への上水道配・給水。 |
大正12年3月7日 | 1923 | 大石良雄宅跡、国指定史跡となる。 |
大正14年 | 1925 | 旧大石頼母屋敷の一部に山鹿素行銅像建立。 |
昭和3年11月30日 | 1928 | 兵庫県立赤穂中学校校舎、本丸跡に竣工。 |
昭和5年5月1日 | 1930 | 大石良雄宅阯、赤穂町が管理団体となる。 |
昭和7年 | 1932 | 大石邸長屋門、宝物陳列場に改造される(『赤穂新報』)。 |
昭和10年 | 1935 | 大手門前の堀が復旧し(『赤穂タイムス』)、太鼓橋が竣工する(『土風時報』)。 |
昭和12年 | 1937 | 本丸跡天守台の崩壊が修復される。 |
昭和15年 | 1940 | 赤穂城跡が風致地区に指定される(22.1ha)。 |
昭和19年 | 1944 | 赤穂町に近代的水道が敷設される。 |
昭和25年 | 1950 | 松岡秀夫、財団法人有年考古館を設立。 |
昭和26年9月1日 | 1951 | 赤穂市制施行。 |
昭和26年 | 1951 | 本丸西側の石垣開口。 |
昭和27年6月 | 1952 | 赤穂城跡公園(普通公園)都市計画が決定(16.7ha)。 |
昭和28年ころ | 1953 | 本丸外堀復元、文化財指定の動きが起こる。 |
昭和29年 | 1954 | 赤穂城復興義士尊像奉献奉賛会により義士木像及び義士木造館、大手隅櫓と左右の防壁並びに大手門の再建に着手。 |
昭和30年5月11日 | 1955 | 大手隅櫓、大手門が整備される。 |
昭和33年12月 | 1958 | 山鹿素行銅像を再建。 |
昭和40年7月 | 1965 | 城跡公園計画決定区域のうち7haについて城跡公園事業決定を受ける。 |
昭和42年 | 1967 | 厩口門開口。 |
昭和42年7月 | 1967 | 上仮屋区画整理認可。 |
昭和43年6月 | 1968 | 二之丸内に赤穂塩業資料館が竣工する。 |
昭和46年3月31日 | 1971 | 赤穂城跡が国史跡に指定される(指定面積187,895u)。史跡買上げに着手。 |
昭和47年度 | 1972〜 | 二之丸公園整備始まる。 |
昭和49年度 | 1974〜 | 赤穂城跡の石垣修理が始まる。 |
昭和50年6月 | 1975 | 都市計画事業認可(7ha)。 |
昭和51年10月 | 1976 | 赤穂城跡公園開設告示(4.2ha)。 |
昭和51年10月 | 1976 | 保存管理計画策定に着手。 |
昭和52年度 | 1977〜1978 | 本丸南隅櫓枡石垣修復(昭和51年9月の17号台風災害復旧事業)。 |
1978 | 上仮屋地区の区画整理完了。 | |
昭和52年3月7日 | 1977 | 赤穂城跡、赤穂市が管理団体となる。 |
昭和52〜53年度 | 1977〜1979 | 大石良雄宅跡長屋門解体修理工事。 |
昭和53年2月 | 1978 | 赤穂城跡公園使用開始告示(追加共用:1.2ha)。 |
昭和53年3月 | 1978 | 史跡赤穂城跡保存管理計画策定。 |
昭和53年度 | 1978〜1979 | 三之丸(塩屋門隅櫓台南)石垣修理。 |
昭和54年度 | 1979〜1980 | 大石良雄宅跡長屋門防災工事。 |
昭和55〜55年度 | 1980〜1981 | 本丸西北隅櫓台石垣修理。 |
昭和56年3月 | 1981 | 史跡赤穂城跡整備基本構想。 |
昭和56年3月 | 1981 | 三之丸武家屋敷公園設計策定。 |
昭和56年9月 | 1981 | 兵庫県立赤穂高等学校校舎、城外の御崎へ移転する。 |
昭和57年度 | 1982〜1983 | 駐車場整備。 |
本丸整備が始まる。 | ||
二之丸西中門石垣修理。 | ||
二之丸外堀復元(清水門周辺)。 | ||
三之丸武家屋敷公園整備。 | ||
昭和58年11月 | 1983 | 赤穂城跡公園(総合公園)都市計画決定の変更(19.1ha) |
昭和58年度 | 1983〜1984 | 本丸跡の発掘調査が始まる。 |
昭和59年2月 | 1984 | 事業認可変更(8.4ha)。 |
昭和59年度 | 1984〜1985 | 二之丸外船入跡発掘調査着手。 |
本丸池泉庭園復元設計。 | ||
本丸天守台石垣修復。 | ||
昭和60年度 | 1985〜1986 | 城内発掘調査着手(上水道、船入跡、米蔵跡)。 |
本丸表御殿大池泉、池泉周辺、天守台防護柵の復元。 | ||
昭和61年3月 | 1986 | 本丸門基本構想。 |
昭和61年度 | 1986〜1987 | 本丸奥御殿坪庭の復元。 |
米蔵跡ほか発掘調査。 | ||
昭和62年度 | 1987〜1988 | 本丸表御殿屋形間取り、土塁の復元。 |
米蔵跡ほか発掘調査。 | ||
昭和63年度 | 1988〜1989 | 土塁の復元。 |
本丸御殿の間取り復元。 | ||
三之丸武家屋敷公園整備。 | ||
有年原・田中遺跡で大型墳丘墓を発見。 | ||
平成元年3月 | 1989 | 塩屋惣門の移築といわれる花岳寺山門が市指定文化財となる。 |
平成元年3月 | 1989 | 三之丸清水門外の米蔵跡に赤穂私立歴史博物館が開館。 |
平成元年3月 | 1989 | 本丸門基本構想の見直し。 |
平成元年度 | 1989〜1990 | 三之丸近藤源八宅跡長屋門改修。 |
三之丸外堀モニュメント設置。 | ||
本丸くつろぎ庭園、池泉の復元整備。 | ||
二之丸、三之丸外堀等発掘調査。 | ||
大石良雄宅跡長屋門防災設備設置。 | ||
平成2年11月 | 1990 | 本丸門基本計画策定。 |
平成2年度 | 1990〜1991 | 三之丸等発掘調査。 |
本丸庭園、休憩舎、便所等の整備。 | ||
三之丸清水門橋石垣修理。 | ||
平成3年3月 | 1991 | 史跡赤穂城跡整備基本構想(見直し)。 |
平成3年度 | 1991〜1992 | 本丸刎橋門修理。 |
二之丸西中門石垣修理。 | ||
三之丸大手隅櫓災害復旧。 | ||
西中門、三之丸外堀、刎橋門の発掘調査。 | ||
平成4年度 | 1992〜1993 | 三之丸外堀修景(多目的広場)。 |
本丸門枡形石垣復元着手。 | ||
本丸刎橋門石垣修理。 | ||
三之丸大手門周辺外堀復元、石垣修理。 | ||
平成5年度 | 1993〜1994 | 三之丸近藤源八宅跡長屋門保存修理。 |
二之丸西中門石垣修理。 | ||
二之丸外堀発掘調査。 | ||
三之丸大手門周辺護岸石垣修理。 | ||
本丸門復元着手。 | ||
本丸門枡形石垣復元完成。 | ||
本丸刎橋門・周辺石垣修理。 | ||
二之丸加里屋側沿い外堀修景。 | ||
平成6年3月 | 1994 | 史跡赤穂城跡整備基本構想の一部見直し。 |
平成6年度 | 1994〜1995 | 三之丸園路修景。 |
二之丸石垣修理。 | ||
本丸刎橋門周辺石垣修理。 | ||
二之丸土塁修理(加里屋川沿い)。 | ||
二之丸西部外堀発掘調査。 | ||
有年原・田中遺跡公園完成。 | ||
平成7年度 | 1995〜1996 | 本丸刎橋門周辺石垣修理。 |
二之丸西中門周辺外堀復元。 | ||
平成8年3月 | 1996 | 本丸門復元完成。 |
平成8年3月 | 1996 | 赤穂城跡整備基本計画策定。 |
平成8年度 | 1996〜1997 | 本丸厩口門跡発掘調査。 |
二之丸東北隅櫓台発掘調査。 | ||
二之丸東北隅櫓台石垣修理。 | ||
三之丸大手門枡形周辺発掘調査。 | ||
二之丸外堀・三之丸侍屋敷発掘調査。 | ||
本丸・二之丸外堀発掘調査。 | ||
平成9年度 | 1997〜1998 | 二之丸遊水地発掘調査(現地説明会3/22)。 |
本丸外堀復元。 | ||
本丸北西部護岸石垣修理。 | ||
二之丸水手門跡周辺発掘調査。 | ||
赤穂城跡整備基本設計。 | ||
平成9〜10年度 | 1997〜1999 | 本丸内施設のバリアフリー化を実施。 |
平成10年度 | 1998〜1999 | 三之丸近藤源八宅跡長屋門が市指定文化財となる。 |
三之丸近藤源八宅跡長家門解体復元。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会7/26)。 | ||
二之丸庭園発掘調査、大石頼母邸の調査で、錦帯池の遺構検出。 | ||
本丸刎橋門跡石垣修理。 | ||
本丸厩口門跡周辺石垣修理。 | ||
二之丸米蔵跡発掘調査。 | ||
平成11年度 | 1999〜2000 | 二之丸庭園発掘調査(現地説明会6/20)。 |
二之丸米蔵跡発掘調査。 | ||
本丸外堀護岸発掘調査。 | ||
本丸外堀護岸石垣修理。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会8/29)。 | ||
平成12年度 | 2000〜2001 | 二之丸米蔵休憩舎整備(実施設計1999)。 |
二之丸水手門整備。 | ||
二之丸庭園発掘調査(現地説明会6/11)。 | ||
三之丸大手門枡形発掘調査(現地説明会10/9)。 | ||
三之丸大石神社内発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
防火水槽設置事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会11/26)。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会3/4)。 | ||
本丸厩口門整備。 | ||
二之丸庭園錦帯池基本設計。 | ||
平成13年度 | 2001〜2002 | 三之丸大石神社拝殿改築に伴う発掘調査。 |
施設建築に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会6/3)。 | ||
「近世大名庭園と錦帯池」フォーラムが赤穂市文化会館において開催される。 | ||
二之丸庭園錦帯池実施設計。 | ||
二之丸城壁水手門周辺発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
2002 | 二之丸花見広場整備(実施設計2000)。 | |
平成14年度 | 2002〜2003 | 二之丸庭園整備に伴う発掘調査。 |
赤穂城跡二之丸門枡形周辺発掘調査(現地説明会6/2)。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会8/4)。 | ||
防火水槽設置事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会2/16)。 | ||
平成14年9月20日 | 2002 | 旧赤穂城庭園(本丸庭園、二之丸庭園)が国名勝に指定される。 |
平成15年度 | 2003〜2004 | 三之丸大手門枡形周辺整備(実施設計2002)。 |
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会7/21)。 | ||
公園整備事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査(現地説明会10/28)。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
二之丸庭園整備工事現地見学会開催(2/21)。 | ||
平成15年8月27日 | 2003 | 赤穂城跡の一部、国史跡に追加指定(2,510.17u)。 |
平成16年度 | 2004〜2005 | 街路拡幅事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 |
民間宅地開発事業に伴う赤穂城下町跡発掘調査。 | ||
二之丸庭園上流部東屋竣工。 | ||
二之丸庭園整備工事現地見学会開催(1/23)。 |