市指定文化財
鳥井町地蔵堂
(付)石造地蔵坐像及び名号石
とりいちょうじぞうどう
(つけたり)せきぞうじぞうざぞうおよびみょうごうせき
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 建造物
- 数量
- 1棟
- 所有者
- 鳥井自治会
- 指定年月日
- 平成23年3月31日
- 指定番号
- 56
- 説明
-
坂越大道の北の木戸門跡から坂越に入ってすぐ、東の宝珠山へ少し上がった位置にある。
妙道寺旧記によれば、元禄11年(1698年)に鳥井坂の火葬場に願主奥藤利久、妙道寺住僧恵深により石造の地蔵菩薩坐像が造られた。その後、享保6年(1721年)にはその周辺整備とともに地蔵堂が建立され、翌享保7年に移徒(わたまし)供養が行われた。願主は奥田道桂、住持は恵深、大工は弥三郎義平と記されている。同年渋谷重安が勧進発起主となり、村内総門徒中によって六字名号石(ろくじみょうごうせき)が建てられた。地蔵像と地蔵堂の建立は地元の名家によるものだが、名号石が村民によって建立されているので、村内門徒の死者供養の場であったことが分かる。明治25年(1892年)に火葬場跡の土地整理が行われて、地蔵像、地蔵堂、名号石は現在地に移転した。現在は鳥井自治会が管理している。以上の来歴から分かるように地蔵堂は、村堂、辻堂などに分類される民衆の仏教建築である。
建築年代は妙道寺旧記に享保6年とあり、様式、部材とも年代相応である。
地蔵堂は、高さ約50cmの切石積(きりいしづみ)基壇(きだん)の上に建てられている。基壇の広さは、堂とだいたい同じである。平面は一間四方の単純な形で、地蔵像は基壇に置かれ、それ以外は床をはる。背面は板壁、両側面には火灯窓(かとうまど)を設け、正面側は両開きの腰付き格子戸、天井は悼縁(さおぶち)天井である。柱は粽(ちまき)付きの円柱で、基壇の上に土台建てとし、背面を除く三方には腰貫(こしぬき)を入れ、柱頭は頭貫木鼻付(かしらぬききばなつき)、台輪木鼻付(だいわきばなつき)でつなぐ。組物は三斗枠肘木(みつとわくひじき)で実肘木付(さねひじきつき)である。中備(なかぞなえ)は彫刻を施した蟇股(かえるまた)、軒(のき)は一軒で扇垂木(おうぎだるき)である。屋根は桟瓦葺(さんがわらぶき)とし、上に銅製の宝珠を上げる。
建物の規模が小さいわりに装飾性が豊かである。彫刻類の題材は不分明なものもあるが、蟇股彫刻は鳳凰、南瓜、鳥、二股大根と鼠、頭貫木鼻は獅子、牡丹、鳳凰、桔梗、菊(2箇所)、波、雲となっている。村堂は簡素な作りが普通であるから、立体的な動植物の彫刻をこれほど多彩に用いる例は少ない。また、垂木が扇垂本なのも小規模な仏堂としては手の込んだ手法である。施主が地元の名士なので、資金をかけることができたのだろう。
明治25年の移築時と近年にも改造、修理が行われている。まず、正面の虹梁形頭貫(こうりょうがたかしらぬき)と格子戸の開き戸が新しい。正面の柱間には扉を吊る藁坐(わらざ)が残っているが、今は使用されていない。原形は藁坐をもつ本格的な両開きの扉だったと推定される。藁坐が取り付けられた虹梁形頭貫は明治材とみられ、取り付け方も不自然である。明治修理では、虹梁形頭貫を取り替えてもとの藁坐を使ったが、その後扉を新しくして藁坐を使用しなくなったのだろう。昭和55年(1980年)に屋根替えがあり(屋根替え札)、平成2年(1990年)頃にも屋根を葺き替えので、古い瓦は残っていない。平成9年(1997年)頃に板壁、床板を新しくした。
壁、床板、瓦の古材が残らず、構造材では特に正面の虹梁形頭貫、扉が当初材でないのが惜しまれる。約300年を経た小堂なので、この程度の改変はやむをえないだろう。建築的価値を示す細部はよく残されていて、市内の同種遺構のなかでは最古のものに属し、原形をよくとどめている。民衆の庶民信仰をよく示す建物として貴重な価値をもっている。
堂内の地蔵菩薩坐像は、妙道寺旧記によれば元禄11年(1698年)の作と伝え、像高は92.0cm、蓮華台、台石を含めた総高157.0cmを測る。像は丸彫りの坐像で、花崗岩製。また堂前にある花崗岩製の名号石は、妙道寺旧記によると地蔵堂が建造された翌年の享保7年(1722年)に建立されたもので、高さ242.0cm、幅52.5cm、奥行39.0cmで、台石を含めた高さは300.0cmを測る。正面には薬研彫りで「南無阿彌陀佛」と深く刻まれ、最下部には蓮台が彫り込まれている。いずれも地蔵堂の成立と信仰の根幹に関わるものとして価値の高いものであり、共に保存されることが望ましい。
(上記は指定時の文章です)