市指定文化財
神護寺石造物 じんごじせきぞうぶつ
大石良欽寄進手洗石 おおいしよしたかきしんてあらいいし
大石良重寄進石燈籠 おおいしよししげきしんいしどうろう
大石良雄寄進石燈籠 おおいしよしたかきしんいしどうろう
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 建造物
- 数量
- 5基
- 所有者
- 神護寺(管理者)如来寺
- 指定年月日
- 平成22年8月24日
- 指定番号
- 55
- 説明
-
神護寺は、延享4年(1747年)に藤江忠廉が著した『播州赤穂郡志』によれば、奈良時代に和気清麻呂によって創建された古寺であるが、その後は栄華盛衰を繰り返し、文治年間(1185〜1190年)に文覚上人によって一時再興された。しかし、応仁の乱(1467〜1477年)の時に全焼し、明応年間(1492〜1501年)に長慶法師によって再建されたが戦乱で罹災、寛文3年(1663年)に山王権現の神宮寺として浅野長直(赤穂浅野家初代藩主)によって再建されたと伝えられる。
本物件のうち、山王権現の社に至る石段の上にある石燈籠2基(1対)は、寛文6年(1666年)銘の六窓庵形で高さ170cmを測る。社殿前にある石燈籠2基(1対)は、貞享4年(1687年)銘の西の屋形で高さ210cmを測る。手洗石は寛文5年(1665年)銘の創作升形で、高さ49cm、幅51cm、奥行51cmを測る。
寛文6年には藩主内匠頭長直が、「三十六歌仙絵」の扁額を山王権現社に奉納するとともに、娘婿でもある大石頼母助良重(江戸家老)が同じく寛文6年に石燈籠を寄進している。寛文5年(1665年)銘の手洗石は、良重の兄である執政(城代家老)大石内蔵助良欽が寄進したものであり、石燈籠には「奉寄進 山王御宝前 寛文六丙午年正月吉祥日 願主 大石頼母助」と、また手洗石には「高雄山山王御宝前 奉寄進手水鉢 大石内蔵助良欽 于時寛文五乙巳年 十二月吉日」と刻まれている。赤穂城の築城完成〔慶安元年〜寛文元年(1648〜1661年)〕から間もない頃のことであり、当地(周世)が赤穂城の鬼門の方角にあたるところから、築城工事の完成を記念するとともに、浅野家や大石家の武運長久を祈願して寄進したものと考えられている。
残りの石燈籠には「貞享四丁卯年 奉寄進 石燈籠 七月吉祥日 願主(大石内蔵助一筆者注)良雄」とある。いずれも山王権現社(神護寺)と藩主浅野家及び家老大石家との密接な関係を窺わせるものである。
現在赤穂市に現存する石燈籠549基、このうち中世以前のものはなく、近世に限れば156基(うち17世紀は24基)、残りは近代以降および年代不明のものである。最古は花岳寺浅野長重の墓前の承応3年(1654年)銘の石燈籠、次いで高光寺西庭園にある寛文5年(1665年)銘の石燈籠で、神護寺のそれは3番目に古いものである。
手洗石の場合も現在市内に現存するものは259基、これも中世以前のものはなく、近世に限れば34基(うち17世紀のものは2基)、残り近代以降および年代不明のものであり、本物件が最古である。
赤穂市にあって、これら最古に属する石造物がまとまって存在すること、赤穂城の築城を祝って寄進されたという時代背景が明らかなこと、赤穂浅野家の城下町建設の意図が汲み取れることなどから、本物件は市の指定文化財としてふさわしいものと考える。
(上記は指定時の文章です)