市指定文化財
六道絵
ろくどうえ
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 絵画
- 数量
- 16幅
- 所有者
- 誓教寺
- 指定年月日
- 平成19年3月30日
- 指定番号
- 50
- 説明
- 1.作品の概要
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- 紙本着彩 16幅 (各127.9p×57.4p)
- 一つの木箱に全16幅を収納
- 箱蓋表墨書(縦書)
「大正四年六月
往生要素 御絵 誓教寺」 - 「8 厭離穢土之事」 表具軸裏墨書(縦書)
「大正四年四月表装替
寄附世話人
永石てる・有馬のゑ
赤穂郡高野村 誓教寺什物」
- 2.制作年代
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本作品の制作年代は、18世紀後半から19世紀中頃までと推測される。その理由として以下のことがあげられる。
- (1) 本山(浄土真宗本願寺派・西本願寺)より、寺としての認可が与えられたのが、宝暦2年(1752年)とされる。
- (2) 七代前の住職の時代に、内陣が出火により焼損し、その際、本尊も焼失したと考えられる。そして、おそらくこの後、宗旨替が行われるなど、寺としても大きな変革があったのではないか。その結果、本山西本願寺より末寺と認められたのが宝暦2年ではないか、という(現住職の談)
- (3) 本図の箱書・軸裏墨書銘に、大正4年(1915年)表具替を行ったことが記されている。表具替や修理は、平均すると150年〜200年に1度行われているようである。
- (4) 「赤穂市誓教寺『三界六道図絵』の絵解き」杉原来子(『藝能文化史』第7号、昭和61年8月)によると、「現住職の四代前の琳瑞の時代に描かれたものと伝え、十八世紀初頭の成立であろう、と察せられる。」とある。ただし、4代前ということは、1代30年として計算すると120年前となる。昭和61年(1986年)から120年遡ると1866年ということになり、19世紀中頃過ぎである。杉原氏の文意とはいささか違ってくる。
なお、当寺には、本図に関係する文書・資料は全く伝存していないとのことである。 - (1) 本山(浄土真宗本願寺派・西本願寺)より、寺としての認可が与えられたのが、宝暦2年(1752年)とされる。
- 3.作品の意義と位置づけ
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平安時代の中頃、浄土思想の展開とともに、死後の世界への不安と恐怖は、人々の最大の関心事であった。有力貴族などは、この世の極楽をつくるべく壮麗な寺院を建立し、阿弥陀如来がまつられた。そして、死後は極楽浄土へ迎えられることを願ったのである。
一方、恵心僧都源信によって『往生要集』が著され、人々に具体的な極楽・地獄の世界が広く伝えられるようになった。来世への不安と地獄の恐怖は、現世における善行と悪行の結果を強く意識させるようになる。人々に強く印象づけるために、その姿を具体化させたのが「六道絵」である。
最も著名なものに、滋賀県大津市の聖衆来迎寺に伝わる平安時代末期の作とされる「六道絵」(国宝、15幅)がある。以降、明治に至るまで、多くの「六道絵」「十王図」「十三仏図」等の六道の世界を描いた作品が作られてきた。これらは絵解きという形で、人々へ絵の内容と因果応報が説かれていたものである。しかし、今日、この絵解きが継承されている例は極めて稀となっている。
誓教寺に伝わる本図は、全16幅よりなり、今日も絵解きが続けられている貴重な作例といえよう。全体の構成は、以下のとおりである。-
1. 人道九相之図
2. 仙人界・人道之事
3. 餓鬼道之事・血池苦変
4. 修羅道之事・畜生道之事
5. 天人界之事
6. 同上
7. 同上
8. 厭離穢土之事(閻魔王宮図)
9. 第一等活地獄
10.第二黒縄地獄
11.第二衆合地獄
12.第四叫喚地獄
13.第五大叫喚地獄
14.第六焦熱地獄
15.第七大焦熱地獄
16.第八阿鼻地獄
絵の筆写はおそらく京都の絵仏師であろうが、いささか素朴さが見られるものの、実にしっかりとした描写であり、近世後期の制作にしてはよく描かれている。そして、何より今日なお絵解きが継承されていることが、とりわけ重要な点である。
(上記は指定時の文章です)