市指定文化財
田淵家文書
たぶちけもんじょ
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 古文書類
- 数量
- 一括
- 所有者
- 赤穂市教育委員会
(管理者) 田淵記念館 - 指定年月日
- 平成17年3月24日
- 指定番号
- 44
- 説明
-
本物件は、赤穂塩田における最大の塩業者であった田淵家が所蔵していた諸文書類を一括したものである。
正保2年(1645年)6月、新たに赤穂53,500石の領主として入封した浅野長直は、前代の池田家の塩業政策を受け継いで積極的な開発奨励政策を推進し、千種川河口東岸の沖合に新規塩田を開発する一方、西岸の既存塩田の整理・統合を推し進めた。このうち前者(尾崎村・新浜村)に形成されたものを東浜、後者(加里屋町・塩屋村以西)を西浜、これらを合わせて赤穂塩田と総称している。浅野家治世50余年の間に、東浜で110町歩余が、西浜でも95町歩余の入浜塩田が造成されたが、赤穂塩田200町歩余の生産力は米に換算して3万〜5万石に相当するものであった。
この東浜の開発と並行して、赤穂藩では塩業先進地である大塩・的形地方(姫路藩領)の塩業者の移住を奨励したが、この奨めに従って尾崎村に移住したのが市兵衛(川口屋・田淵家の初代当主)であり、寛文13年(1673延宝元年)にはすでに尾崎村の資産家であったことが確認されている。この年(延宝元年)に御崎新浜村に移り、延宝5年(1677年)からは塩問屋を兼営、村政でも元禄10年(1697年)には新浜村年寄役(二代市兵衛の時)、元文5年(1740年)には大年寄格(三代九兵衛の時)へと上昇し、延享5年(1748年)には蔵元役に就任するなど、藩財政の一翼を担うまでに成長した。この頃に田淵姓を名乗ることが許されたようで、多角経営も本格化していき、家業(塩田経営・塩問屋・薪問屋)のほかに金融業(大名貸1船手貸)や廻船経営までにも進出しているが、この後の安永〜文化(1772〜1817年)頃が同家の最盛期であり、東西あわせて106町歩を所有する日本最大の塩田地主であった。
本物件は史資料件数1,137件に及ぶものであり、そのなかには田淵家の家産(経営)関係に関する諸帳簿類が多く含まれている。また代々当主が芸能(とくに茶道)に造詣が深かったこともあり、芸能に関する諸冊子をはじめ、文化11年(1814年)には藩主の御成りに関する諸記録も残されている(『殿様御成日記』)。
このように新規塩田開発村として成長していった御崎新浜村の発展の様子を、また一塩業者から日本最大のそれにまで成長する過程を、さらには巨大塩田地主の多角経営の内容を解明するうえでも、本物件は貴重な歴史資料を提供するものである。また豪商としての生活振りがうかがえるえるものも多くあり、同地方の文化水準の高さを示す資料としても興味深いものでもある。
(上記は指定時の文章です)