市指定文化財
暦法算額絵馬
れきほうさんがくえま
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 歴史資料
- 数量
- 1面
- 所有者
- 大津八幡神社
(管理者)歴史博物館 - 指定年月日
- 平成16年4月20日
- 指定番号
- 43
- 説明
-
当絵馬は、浜田文治(出口屋・大津村庄屋)が寛政3年(1791年)9月に大津八幡神社に奉納した暦法算額絵馬である。その法量は幅200cm、高さ46cm、厚さ5cmを測り、額面はマツ材の一枚板である。
算額絵馬とは「幾何学の問題と回答を記し、問題が解けたことを神仏に感謝し、より一層の精進を誓って奉納された絵馬」とされている。当絵馬は授時暦(中国・元の暦)をもとに 寛政4年の月ごとの定朔(朔日・新月)、定望(15日・満月)を試算したものである。
算額絵馬は、江戸時代の和算の水準をしめすものとして高い評価をえている。このうち暦法を記した絵馬は珍しく、全国に4例しか確認されておらず、なかでも当絵馬は最古のものであると指摘されている。 その4例は
- 兵庫県赤穂市 ・ 大津八幡神社 「暦法算額」 寛政3年(1791年) 9月
- 青森県八戸市 ・ おがみ神社 「万年暦算額」(市指定) 文化9年(1812年) 9月
- 福島県飯野町 ・ 毘沙門堂 「初寅算額」 明治20年(1887年)
- 福島県小野町 ・ 東堂山毘沙門堂 「初寅算額」 明治31年(1898年)
江戸時代に入り、「天行に遅れること二日」と、長年にわたって用いられていた宣明暦が実態にあわなくなったことが問題となり、安井算哲(渋川春海)によって中国・元の暦法である授時暦をもとに作成された貞享暦(1681年)が幕府に採用された。その後は幕府・天文方によって宝暦の改暦(1755年)、寛政の改暦(1798年)、天保の改暦(1844年)とあわせて4回の改暦が行われた。
いずれも「太陰太陽暦」と呼ばれるもので、1ヶ月を「月(太陰)」が地球を回る周期(約29.5日)とし、これを「大の月(30日)」と「小の月(29日)」によって調節する一方、地球が太陽のまわりをまわる周期(365.25日)をもって1年とした。この「太陰太陽暦」では、2 〜3年に一度は閏月のある年を設け、また「大の月」と「小の月」の並び方を替えることで調整した。これら暦(太陰太陽暦)は、農作業の時期を知る為にも必要不可欠なものであったが、毎年「大の月」と「小の月」の並び方が変わる為、代金の取立てや支払いを月末にする商人にとっても欠かせないものであった。
算額絵馬の奉納者である浜田文治(出口屋)が、暦法・算学を学ぶに至った経緯については不明である。文政初期頃(19世紀初め)の「諸国算者高名鑑」に「バン州アコ 浜田文治義矩」とあるところから、桑原氏は、文治は若い頃に大阪に出て、麻田剛立・間重富など当時高名な数学者から指導を受けたものでないかと推測している。また浜田治一『出口屋系譜』に、文治は塩田干拓や溜め池・井堰の築造などに多額の費用を拠出したと記されていることから、干拓・築堤技術を習得するために算学を学んだとも推測されるが、いずれもその詳細は不明である。なお算額絵馬の末尾に「当郡牟禮善日門弟 当村濱田氏■塾」とあるところから、有年牟礼に居住していた善日のもとで算額・暦法を学び、自ら私塾を開いていたことがわかる。
以上のように、当絵馬は損耗が激しいが、歴史的資料としての価値をより高く評価できるものである。 (■……走へんに酋)
(上記は指定時の文章です)