市指定文化財
大蓮寺山門
だいれんじさんもん
- 区分
- 有形文化財
- 種別
- 建造物
- 数量
- 1棟
- 所有者
- 大蓮寺
- 指定年月日
- 平成16年4月20日
- 指定番号
- 42
- 説明
- 1 建物概要
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(1)規 模 - 桁 行 : 両端柱 真 10尺(中央柱間5尺、両脇柱間2尺5寸)
- 梁 問 : 両端柱根 真々8尺
- 中央棟高 : 18尺
- 両脇棟高 : 16尺
- 概 要 : 三間一戸、切妻造、瓦葺、両袖壁付
- 基 礎 : 親柱(鏡柱)、袖柱、脚柱礎石共 方形切石、礎石間挟間 布切石、両袖壁地覆 布切石 軒内 土間
- 軸部と組物 : 親柱 鏡柱、両脇柱中央正面背面共 角柱、棟通り柱間に蹴込、三間冠木、冠木大棟下 虹梁、冠木上中備え 実肘木付き大斗、両端 束柱、虹梁中央に桟梁、両端桟梁は束柱より二手先支え、軒桁妻梁 井桁組、軒桁 実肘木付き巻斗にて支承、大棟脇棟とも化粧棟木 板蟇股支え
- 天 丼 : 中央棟 格天丼、両脇棟 化粧屋根裏
- 軒廻り : 二軒、切妻破風 眉欠き付き、中央棟脇棟とも 鰭付きかぶら懸魚
- 屋 根 : 切妻本瓦葺、中央棟両脇棟段違屋根、大棟鬼板 経巻鳥伏間鰭付、両脇棟 鬼瓦鰭付
- 中央棟東側鬼板「泉州堺 下田」
中央棟西側鬼板「泉州堺瓦屋 下田喜重郎」
中央棟正面東側降棟鬼板「泉州堺瓦屋 下田喜重良 明和己丑六年三月日」
丸瓦、平瓦「堺北喜重郎」(刻印)
中央棟正面西側降棟鬼板「大正十年三月 真殿瓦師 山中和三郎作」
- 2 大蓮寺の沿革
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開山は、察道和尚〈天文元年(1532)寂〉。当初は現在地ではなく、雄鷹台の山麓にあったと言われる。移転された時期は定かではないが、『松平右京大輔政綱公御時代之絵図』に描かれていることから、元和元年(1615)〜寛永18年(1641)には現在地に所在していたと考えられる。
本寺の境内には山門の他に小門、庫裡、本堂などの建造物がある。かつては山門の西側に鐘楼もあったが、昭和61年に取り壊された。
小門(薬医門)は、現存する中央棟西側鬼板に「享保二十乙卯年二月日」銘があることから、享保20年(1735)に建築されたとしてよいであろう。現在の庫裡は、昭和6年(1931)に新増築されたものであり、昭和35年(1960)ごろに取り壊された旧庫裡部分の古瓦に「寶暦二壬申年三月廿□日」銘があることから、旧庫裡は宝暦2年(1752)に建てられたと考えられる。現存する本堂は、保管されている「寛政二庚戌年四月十五日」銘の棟札により、建築時期を寛政2年(1790)とすることができる。なお、本堂は昭和57年に修理工事が行われ、鬼瓦は既存のものを焼き直して据え直された。
また、本堂に安置される本尊阿弥陀三尊木像のうち阿弥陀如来坐像の光背裏には、製作年を記す享保14年(1729)銘がある。その他、「安永八己亥載(1779)七月十五日」銘の庫裡中庭手洗石、「文政三年(1820)」銘の笠間稲荷社前石燈籠、「天保六年(1835)」銘の本堂前石燈籠など江戸期の年代を残す石造品も境内地に所在する。
赤穂浅野第二代藩主長友の夫人波知は、志摩国鳥羽藩主内藤忠政の娘であり、内藤家の宗旨が浄土宗であったため、本寺を波知の菩提寺とした。浅野家断絶後は、藩主森家の家臣を中心とした浄土念仏信仰の菩提寺とされた。 - 3 建物の年代と特徴
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建設年代を推定する史料は瓦刻銘の「明和己丑六年」だけであるが、簡素な細部意匠、部材の風触などからみて明和6年(1769)ごろの建物としてよいと思われる。
本建物は一般的な門形式に該当しない特異な形式である。中央棟と両脇棟の屋根を段違いにし中央を開き戸、両脇を片開きにしているため三つに分かれて見える。しかし、建物全体の棟下に一本の冠木を通し、三間一戸の形式になっている。また四脚門のようにも見えるが、構造上では大規模な棟門の両妻側に、末広がりの控え柱を入れ貫と板壁で妻側の軸部を固めた形式といえよう。
市内の寺院に本建物のような特異な形式の門はなく、市内の寺院のなかでは規模が雄大で、また江戸時代前半期を代表するような簡素な彫り物も門全体の意匠を品位のある優れたものにしており、市内では貴重な建築遺構になっている。
(上記は指定時の文章です)