兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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市指定文化財
光明寺町石
こうみょうじちょうせき

区分
有形文化財
種別
歴史資料
数量
8基
所有者
光明寺(4基)
赤穂市教育委員会(4基)  
指定年月日
平成13年12月19日
追加指定令和6年3月29日
指定番号
39
説明
 黒沢山光明寺は西播磨の古刹として知られ、その旧地は同寺の奥の院として黒沢山( 標高334m)の山頂近くにある。多くの塔頭を持つ大寺院だったが、天文7年(1538年)の尼子晴久の兵乱で堂宇を焼かれてからは衰運をたどり、残っていた1坊も文政2年(1819年)に山麓に移ってからは、長く荒廃にまかされていた。しかし、平成2年以来、大師堂や庫裏も順次建てられ、整備が進んでいる。
 往時の光明寺の盛期を示すものとして、南北朝期の宝篋印塔(建武2年=1335年)や、笠塔婆(康永4年=1345年)が残されているが、奥の院や、有年考古館に保管される町石もそのひとつである。山麓の有年楢原から奥の院(当時の本堂)に至る参道に立てられていたものである。大半は失われ、いまは奥の院境内入口付近に4基を集めて立て、有年考古館(赤穂市有年楢原)に2基が保管されている。山上の4基は、現在地よりやや下った山腹にある養鶏場造成時に出土したもので、有年考古館の2基は同館の初代館長松岡秀夫氏が、近在の農家にあったものをもらい受けたものである。
 町石とは寺への参詣道が長い場合、本堂から一町ごとに立てるものだが、単なる標識ではない。古い時代の町石には、笠塔婆や長脚五輪卒都婆型、あるいは板碑や自然石のものがある。これに仏像や種子が刻まれているときは、塔婆としての内容を持つ。造立の願主は仏菩薩を供養するという作善を行い、町石を礼拝する人は功徳にあずかれることになる。光明寺町石は、五輪塔の地輪部(基礎)を長くした長脚五輪卒都婆形式のもので、基礎部に経典名や町数、願主名などが刻まれている。

   光明寺奥の院町石
(1) 「化城喩品第七」町石
 花崗岩製で、風輸上半から上を欠失。現高82.6cm、基礎部幅18.1cm、これに高さ4cmほどの埋設のための根部がつく。基礎部には別記の刻銘があるが、町数銘はない。しかし、町石とみてよかろう。銘文は、法華経に説く法華七喩のひとつである化城喩をいう。
(2) 四町石
 花崗岩製で、一見完存しているように見えるが、通常は基礎から頂部の宝珠まで一石彫成なのに、水輪、火輸、風・空輪がそれぞれ別石であり、当初のものが折損したものかどうかやや問題が残る。基礎は根部を含めての高さ61cm、幅16.5cm、上部を合わせこの全高は約1m。頭部に金剛界大日如来の種子(バーンク)を持つ別記の刻銘がある。種子があるのはこの1基のみ。
(3) 八町石
 花崗岩製で、ほぼ完存する。根部を含む総高86.8cmで、基礎部の高さ49cm、幅16.3cm。基礎と水輪部以上の部分が折損している。水輪は隅丸方形状で、他の町石に比べて若千年代が下がるようだ。刻銘は別記。
(4) 六町石
 花崗岩製で完存する。総高84.1cm、基礎部の高さ46.3cm、幅17.2cm。刻銘は別記。
   有年考古館蔵町石(館外に並立する)
(5) 十一町石
 花崗岩製。基礎部だけでそれより上を火失。下部は埋設しているが、現高55cm、幅16.5cm。刻銘は別記。
(6) 十五町石
 花崗岩製。風・空輪部を欠失。火輪部までの現高88cm、基礎部の高さ50cm幅、幅18cm、根部の高さ13cm。別記刻銘のように、正面に経典名、右側面に町数と願主名を刻む。なお、『赤穂市史』では願主名「性■(くにがまえにノ)」を「性因」としているが、「■」は「円」の異体字と考えたい。

 これら6基の町石の年代は、いずれも記紀年銘がないため推定のほかないが、様式や手法からみて室町時代の中期、おそらく文明期(1469〜1487年)前後の造立ではなかろうか。
 兵庫県下の中世の町石で複数基を立てているものでは、神戸市北区の丹生山町石群、氷上郡山南町石龕寺の町石群、あるいは三由市波豆川の大舟山町石群などがある。光明寺町石群もやや小ぶりながら、それらに比肩しうる貴重な遺物といえよう。


(上記は指定時の文章です)

追加指定

 町石とは寺社の参道に立てられた石塔で、一般的には一町(約109m)毎に置かれており、参詣者の便に供するものとしていた。その形状は多くが笠塔婆ないし長脚五輪卒塔婆としており、また方柱状の塔身上端部に仏像や種子を彫り、経文の一部が彫られていることから、仏塔としての性格も色濃く有する。
 光明寺は黒沢山と号する真言宗の山岳寺院で、南北朝期に書かれた『峰相記』にも記載される古刹である。中世において、その参道には上述の町石が立てられていた。いずれもすでに原位置は失われているが、これまでに6基の町石の存在が知られており(光明寺奥の院に4基、有年考古館に2基)、いずれも赤穂市指定有形文化財(歴史資料)に指定されている(平成13年12月指定)。これらの指定後、新たに赤穂市に寄贈された町石7、及び有年考古館収蔵品のなかから発見された町石8がある。
 光明寺町石7は、頂部に五輪塔の水輪・火輪・風輪・空輪を乗せ、以下、地輪を方柱状に長く伸ばして塔身とする、いわゆる長脚五輪卒塔婆形式である(既存の町石も、頂部の形態が不明の1基を除いて同じ形式)。花崗岩製で、全高104.5cmを測る。内訳は、空輪部5.5cm、風輪部3.5cm、火輪部11.5cm、水輪部13.5cm、地輪部(塔身部)50.0cm埋(い)け込み部(根部)20.5cmとなる。
 地輪部(塔身部)の正面に三行の銘文があり、中央に大きく「五百弟子受記品第八」と法華経の経典名が彫られ、その向かって右脇に「法有普□界(□は法と推定)(法、普く法界にあり)」とあり、また左脇には「為□□衆生(□□は法界と推定)」と彫られている。この左脇のものは「(この造塔による功徳が)この世界の全ての衆生に及びますように」という意の、石造物銘文によく見られる定形句である。
 製作技術について見ると、埋け込み部(根部)は粗ハツリ(細部の調整無し)のままとし、重みを持たせて地中での安定性を考慮している。一方、地輪部(塔身部)以上は全体的に丁寧なノミ切り加工が施されている。なお上述の銘文が彫られている部分も含め、水磨きは施されていない。
 頂部五輪形の形態的特徴として、水輪は卵形を呈する。火輪の軒は隅反りで、上端の曲線は自然で美しい。風輪は背の低い皿型、空輪も高さは無いが、側面の曲線は滑らかである。こうした頂部五輪形の造形は既知の6基の町石の中では、光明寺町石6に最も近似する。またこの両者は、法華経の経典名を銘文中に含むという共通点がある。
 この光明寺町石6と今回確認された光明寺町石7の製作技術は、他の光明寺町石より圧倒的に優れており、その製作時期がそれらより遡ることを示している。従来、光明寺町石は室町中期(中世後期)の製作だと推定されているが、この光明寺町石7(および光明寺町石6)の製作時期については鎌倉後期?南北朝期(中世後期)に遡るものと考えてよいだろう。
 光明寺町石8は、形式は他の町石と同じ長脚五輪卒塔婆だと思われるが、頂部の水輪以上(火輪・空風輪)は欠損している。さらに地輪部(塔身部)の下半はやはり欠損しており、遺存しているのはその上半部分のみで、現存高は23.0cmを測る。正面に「自光明寺十二」の銘文があり、「光明寺より十二町」の意だと思われる。全体的に丁寧なノミ切り仕上げとなっており、銘文の彫られている面も含め、水磨きは施されていない。
 今回新たに確認された光明寺町石7は製作技術や姿の美しさにおいて従来知られていた光明寺町石の大半を凌駕しており、その造立時期は中世前期まで遡る可能性が高い。また、銘文からは法華経の功徳を遍く衆生に行き渡らせることを意図して造立されたことが見て取れる。すなわち光明寺町石7は石造美術として優れているのみならず、銘文より当時のこの地方の信仰の一端にも触れることができる歴史資料であり、赤穂市指定文化財にふさわしい石造物だと思われる。一方、光明寺町石8は頂部の五輪形が失われているため型式的な検討はできず、製作時期については不明であるが、銘文より考えて、光明寺町石の一つであることは疑いがない。光明寺町石に関しては、本事例も含め現時点で8例しかないためその存在は貴重である。
 なお光明寺町石7は銘文中に町数の記載は見られないが、町石事例としては最古級となる熊野街道笠塔婆は、関連する文献から町石であることが明らかな事例にも関わらず銘文中に町数は刻まれていない。また高野山町石の起点として知られる慈尊院の近隣にある長脚五輪卒塔婆にも銘文中に町数は見られないが、型式的に見て高野山町石と同様の性格を持つ石塔であることは明らかである。また光明寺町石においても、平成13年に指定を受けている町石のうち1基(町石1)には町数を示す銘文はない。よって当該事例(光明寺町石7)を町石と呼称することについて、問題はないものと思われる。

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巻頭写真1
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