市指定文化財
伝大石良雄仮寓地跡
でんおおいしよしたかかぐうちあと
- 区分
- 史跡
- 種別
- その他
- 数量
- 1,643.46u
- 所有者
- 赤穂市
- 指定年月日
- 平成9年3月31日
- 指定番号
- 29
- 説明
-
伝大石良雄仮寓地跡は、尾崎の赤穂八幡宮の東南、小字観音堂の東に位置する平地である。俗称である「おせど」の「せど」は、裏門(口)をいう背戸か、狭い海峡をいう瀬戸か判断は困難であるが、慶長頃の絵図によると、八幡社前の池が本水尾(古江)につながる入江であったように思われ、後者の瀬戸からの地名のようにも推定できる。
元禄頃にはここに、大石良雄の家扶妹尾孫左衛門の兄元屋八十右衛門の宅があり、その山側に離れ座敷でもあったようである。
元禄14年3月14日の刃傷事件の後、3月15日には幕府の赤穂城請取日が4月19日と定まるが、4月7日には家中の屋敷明け渡しも15日と定まった。従って4月15日に大石の家族は尾崎のおせどの元屋屋敷に移った。内蔵助は、三村次郎左衛門の書状によれば「大石内蔵助殿巳の四月十六日に遠林寺へ御引越しなされ候‥‥」とあり、残務整理を続けたようである。また、石束源五兵衛(内蔵助の妻の父)への5月10日付の書状によれば、「‥‥私儀も去る七日夕方より尾崎へ休足に罷り越し、朝食後五ツより其所へ罷り出で候て七ツ過罷り申し候。道筋歩行申し候て養生にも宜しく御座候。‥‥」と朝8時出勤夕4時退庁の徒歩通勤で運動になってよいと述べている。
三村次郎左衛門の書状によれば6月4日に事務終了したが、内蔵助は腕の疔腫再発のためおせどで治療に当たることとなる。6月中旬には妻と子息4人を新浜港から大坂ヘ出船させ、また内蔵助の7月3日付の書状によれば、6月25日に家扶妹尾孫左衛門を連れて山科へ出立し、6月28日に西野山村に着いている。
従って大石内蔵助は元禄14年5月7日より6月25日までおせどに寓居していたことになる。わずか50日足らずであるが、日本史上著名な元禄事件の主役に関係する土地として、市の史跡指定にふさわしい所と思われる。
因に忠僕八助の物語(伴蒿蹊高瞑『近世崎人伝』)の舞台もここであろう。
昭和6年には次のような記念碑が立てられている。
表 大石良雄假寓地
裏 発起人 中村馬三
中川周蔵
碑石寄附者 目木久造
参考文献
「増訂赤穂義士事典」赤穂義士顕彰会編 新人物往来社 昭和58年
「赤穂義士実纂」斉藤茂 赤穂義士実纂頒布会 昭和50年
(上記は指定時の文章です)