赤穂城下町跡発掘調査で木簡が出土しました!!
赤穂市教育委員会では、民間宅地開発に伴って平成20年9月24日〜10月17日まで赤穂城下町跡の発掘調査を実施しました。164uと狭い面積の調査でしたが、下記のように様々な成果が得られましたので、報告いたします。
- (1)侍屋敷の生活面が良好に確認された
- 赤穂城下町跡は平成10年度から積極的な調査が行われるようになり、100件を超える調査例があります。しかしこれまで侍屋敷の生活面が見つかったのはわずかに1例であり、それも18世紀のものに限定されていました。赤穂城下町の町家については、多くの発掘例があり、生活面は高さが異なる3つの生活面が見つかっていますが、侍屋敷ではそれが見られなかったため、果たして当時の生活面がどうなっていたのか、判断できなかったのです。
- しかし今回の調査結果によって、池田時代の城下町を描く絵図に記された水路跡が見つかったことから、当時から近年にいたるまで生活面の高さはあまり変わっていなかったことが判明しました。結論的には、侍屋敷の多くがすでに破壊されている可能性が高いということになりますが、赤穂城下町跡の成り立ちを考えるうえで、貴重な成果と言えます。
- 溝内からは、17世紀中葉から18世紀にわたる陶磁器類が出土しています。
- (2)調査地点周辺は荷揚げ場であった
- 出土した木簡は、上部に抉(えぐ)りがあることや宛先、送り主の名が見られることから、荷物に付ける「付札」であったと考えられます。赤穂城下町跡で木簡が出土したのは今回で2例目であり、1例目は城下町東にあたる「御船入」です。今回の調査地の周辺でも、規模はわかりませんが荷揚げを行う船入があったと考えてよいでしょう。池田時代の城下を描く絵図からは、西方の「小船入」から「ツツミ」をくぐって水路が存在していたことが想定されます。
- (3)木簡から見る流通
- 木簡は、この大溝から1点、やや離れた調査区で見つかった土坑から2点見つかりました。木簡には「御米」「御年貢」など米に関するものが目立ち、また「北野中」「池之内」といった旧赤穂郡内の記名が見られます。
■今回の調査で出土した木簡
- 木簡1 L 25cm × W 2.8cm × T 0.8cm
- (表) 御米四斗入 北野中 藤平(カ)納
- (裏) なし
- ※上部両端に抉(えぐ)りあり。下端尖(とが)る。裏面は手斧(ちょうな)による調整痕残る。
- 木簡2 L 20.5cm × W2.4cm ×T 0.4cm
- (表) 木村弥二兵衛様 平田□□
- (裏) 木村弥二兵衛様 平田□□
- ※上部両端に抉りあり。下端板状。
- 木簡3 L 15.7cm × W 3.0cm ×T 0.5cm
- (表) 御年貢米
- (裏) 池之内 佐吉分
- ※下端尖る。下端部欠損。
木簡1は、城下北東の北野中村から運ばれた荷物に付けられたものです。木簡2は送り主、宛て先ともに苗字をもつ人物が認められます。木簡3の「池之内」は有年原や西有年に地名があります。 ところで赤穂城下町跡では、木簡の出土した地点がもう1ヵ所あります。それが平成13年度に調査した「御船入」北西の屋敷跡です。
■平成13年度の調査で出土した木簡
- 1
- (表)米四斗□□ (裏)かりや我□
- 2
- (表)鳥撫村 小次郎
- (裏)[ ]
- 3
- (表)御米□□(四斗ヵ)入 塩屋村 利□□(兵衛ヵ)
- (裏)[ ]
- 4
- (表)御米□□(斗ヵ)入 竹万村 久□□
- (裏)[ ]
- 5
- (表)御米□□(斗ヵ)入 □□□郎
- (裏)[ ]
- 6
- (表)[ ]長尾村 □(徳ヵ)兵衛
- (裏)改 岡田□□
- 7
- (表)□□□ □(粟ヵ)□□村
- (裏)□□□茂兵衛
- 8
- (表)□□□ □畑村
- (裏)□□中兵衛
- 9
- (表)[ ]□□□ □畑村
- (裏)□町 佐蔵
- 10
- (表)[ ] [ ]□□(七郎ヵ)右衛門
- (裏)[ ]
※竹万村・・・赤穂郡、揖西郡のいずれか
長尾村・・・加東郡、揖西郡、佐用郡のいずれか
粟□村・・・加古郡、加東郡、加西郡、神東郡、神西郡、揖西郡、赤穂郡のいずれか
□畑村・・・印南郡、加古郡、美嚢郡、多可郡、神東郡、神西郡、飾西郡、揖西郡、佐用郡のいずれか
平成13年度の「御船入」周辺調査で出土した木簡には、旧赤穂郡を越える地域の記名が見られます。一方、今回の調査で出土したものは赤穂郡内の地名しか認められず、「船置所」(池田時代)、「御船入」(浅野時代)と称された東の船入と、「小船入」と称された荷揚げ場との差が窺われます。
また今回の調査では、平成13年度調査出土の木簡では見られなかった、苗字をもつ人物から苗字をもつ人物への物資搬送があったことがわかります。「御船入」は、主に年貢搬送に用いられた一方で、今回の「小船入」は個人から個人への私的な物資搬送にも用いられていたことが想定されます。
さらに御船入、小船入ともに米の搬送には「米四斗」という単位が見られるなど、共通点があり、今後の検討によって流通の実態に迫ることも可能な資料と言えるでしょう。
このように、小規模な発掘調査でしたが、赤穂城下町跡についてさまざまな事実が得られる貴重な調査となりました。今後、木簡の内容判読や周辺の発掘調査が進めば、さらに多くの赤穂の歴史を物語ってくれることでしょう。