坂越の歴史
このページでは、平成22年度旧坂越浦会所企画展(H22.7.14〜10.4)でテーマとした、坂越地域の歴史を紹介します。見学可能な文化財もピックアップしておりますので、皆さまぜひご活用ください。
1 中近世の港町としての坂越
古代〜中世の港
坂越湾は生島を囲むように湾が形成され、平野がないところですが、古くから人々が生活していました。古墳時代には「みかんのへた山古墳(古墳時代中期、直径28mの円墳)」や生島古墳などが築かれるなどし、おそらく漁業を生業とする集団が長く存在していたと考えられます。
坂越という地名は、延暦12年(793)にはすでに存在していたことが、奈良県の東大寺などに残されている古文書「播磨国坂越・神戸両郷解」(断簡文書)の存在からわかっています。
また、10世紀以降の成立とされている『和名類聚抄』播磨郷第百十一には「赤穂郡 坂越佐古志・八野・大原・筑磨都久末・野磨・周勢須世・高田・飛鳥」とあるように、播磨の行政単位の一つとして「坂越郷」がありました。
ただし、このときの「坂越郷」とは、現在の赤穂市の目坂・木津・高野・坂越浦以南一帯と、那波(相生市)とをあわせた地域であったようです。
坂越の、港としての姿がわかる史料としては「兵庫北関入舩納帳」があります。これによると、文安2(1445)年正月から文安3(1446)年正月の間に、坂越籍の船には「小鰯」42駄、「ナマコ」670合が積載され、兵庫北関(現・神戸市兵庫区)に寄港しています。小鰯は、この文献から見る限り播磨が全国からの輸送の9割、ナマコは7割を占めており、播磨の特産品であったようです。坂越は、このように瀬戸内の代表的な港の一つとして、古来より栄えてきました。
その理由としては、東の鎌崎、南の丸山の突き出しによってできる、大きく弧を描く湾の形状と、そのなかに浮かぶ生島の存在があります。瀬戸内海は元来、波の少ない静かな海ですが、当時は帆船で航行していたため、雨風の影響を大きく受けました。坂越湾は、内陸にくぼむ形状から大きな被害を受けず、また生島の存在から波の影響も大きくありませんでした。
ところで、中世に内陸流通の起点として栄えたのが、現在は赤穂市木津にある木津・段ノ上遺跡です。ここからは鎌倉時代〜室町時代にかけての白磁や青磁など、多くの輸入陶磁器が出土しています。地形的に、木津は周世、有年へと繋がる内陸流通の起点であり、そこからほど近い場所の坂越と、密接な関係を持っていたのかもしれません。また、木津と坂越の間にあたる下高谷遺跡でも平安時代後期の集落跡が見つかっており、白磁や青磁が出土しています。下高谷遺跡では生活面の上に何層もの洪水層が確認されており、千種川下流域では、河川の洪水被害というリスクを抱えつつも、河川交通を重視した場所が集落立地として選ばれていたようです。
「西廻り航路」以後
近世でも寛文年間(1661〜1672)になると、「西廻り航路」が開設されます。参勤交代の際の大名上陸地に使用され、多くの宿場町が形成された室津(たつの市)と比べると小規模ですが、地形を活かした天然の良港となり、坂越は西廻り航路の港として栄えました。
元禄四(1691)年の「家数・人数改帳」には、人口2,121名(戸数422軒)を数えており、大型廻船31艘、小型廻船15艘、小船が67艘あったとされています(赤穂市史第二巻)。これらの廻船は、千種川上流域から高瀬舟で運ばれてきた年貢の上方(大坂)への輸送のほか、正徳六年(1716)から始まった、肥前国田代(現佐賀県鳥栖市)から大坂・対馬までの、年貢米二万二〇〇〇俵の廻漕などにより莫大な利益を得ました。また幕末から明治期になると、赤穂塩の関東、大阪への輸送の多くを坂越の廻船が行うようになりました。
逆に、全国各地の船を坂越は呼び込みました。たとえば、安永5年(1777)4月12日から21日までの、坂越港への入船記録「坂越浦湊入船控帳」によれば、西は平戸(長崎県)から、東は尾張(愛知県)にかけての船が合計92艘、坂越に入船していることがわかります。また元文四(1739)年9月18日に定められた『船賃銀定法』(赤穂市指定文化財)には、江戸や津軽、壱岐や鹿児島など、全国73箇所への運送賃が掲載されており、当時の交通がすでに全国規模であったことがうかがい知れます。 坂越湾西先端の黒崎にある「黒崎墓所」(兵庫県指定文化財)は、「他所三昧」「船三昧」とも呼ばれ、宝永7(1710)年から嘉永元(1840)年にかけて築かれた、航海中に坂越浦海域で海難や病気などによって客死した人々の集団墓地です。北は秋田、南は種子島、東は伊豆、西は対馬に至るまで29カ国130人が葬られています。
2 旧坂越浦会所
旧坂越浦会所は、坂越のまち並みを貫通する大道と坂越湾とがぶつかったところにあり、いわば坂越の「顔」とも言える建物です。
この建物は、行政や商業などの事務をとるための村会所として天保2(1831)年に建築を開始、翌3(1832)年に完成しました。以後、坂越村の会所として使用されますが、会所と同時に赤穂藩の茶屋としての役割ももっており、2階には藩主専用の部屋(観海楼)が設けられていたのが特徴です。
旧坂越浦会所に関する史料には、以下のものが残されています。
(1) 報徳会文書
「明和二年酉四月廿四日 會所蔵建替諸事控」
「明和二年酉七月 會所蔵建替入用帳」
「天保二年卯四月ヨリ 會所普請諸入用書抜帳」
「明和二年酉四月廿四日 會所蔵建替諸事控」
「明和二年酉四月廿四日 會所蔵建替諸事控」
(2) 會所日記
「天明六年 諸事覚日記」
「明治二年 諸事仮手控帳」
(3) 絵画史料
「坂越浦(版画)」(嘉永年間)
(4) 墨書銘
昭和六年 棟札(坂越公会堂改修時のもの)
このうち「會所日記」には、藩主やその家族や赤穂藩の奉行達が休憩や宿泊に利用していたことが記されており、藩主たちは祭礼見物や釣りなど遊興のためにここで休息したようです。なお2階には、「落之間」として一段低く設定された小部屋があり、低い窓越しに、眼下まで迫っていた坂越湾を眺めることができました。
昭和5(1930)年になると、会所は役目を終え、「坂越公会堂」として改造されます。その際、新たに和室が設けられるなどされ、また戦後には図書室が増築されたことから、外観は大きく変わってしまいました。しかし、絵図史料や日記が残されていることから、江戸時代当時の姿にかなりの程度復元可能なことがわかりました。
このように、藩の茶屋機能をもった大規模な会所建築であり、また建築年代が判明していること、会所日記が豊富に残っていて当時の様子が細かく判明すること、史料によって原形を復元可能なこと等から、平成4年(1992)4月30日に赤穂市指定文化財(建造物)となりました。その後、元国立明石工業高等専門学校の渡辺宏教授らによる建築調査を踏まえた解体復元工事が実施され、平成6年(1994)8月1日に「旧坂越浦会所」として復元竣工され、現在、一般公開しています。
長い歴史のなかで、何度も変化を遂げた旧坂越浦会所ですが、坂越湾を臨み、坂越のまちの中心にあって、坂越のシンボルとしてこれからも存在しつづけることでしょう。
3 秦氏と大避神社
秦 氏
日本列島には、古来から多くの人々が朝鮮半島からやってきました。その理由には、戦乱からの亡命や技術者としての渡来などがありますが、古墳時代から飛鳥時代(およそ1,400〜1,600年前)にかけて、日本列島に渡ってきた人々のことを、特に「渡来人」と言います。この時代に渡来してきた人々によって、漢字(文字)、仏教(寺院建築)、製鉄、馬、農耕・土木技術、医学、機織、紙漉き、養蚕、須恵器、竈など、当時の生活に大きな影響を与えるさまざまな文化や技術が伝えられました。
これらの渡来人は、血縁が有る無しに関わらず、同じ祖先伝承をもつグループを形成しているのが一般的で、東漢氏、西漢氏、西文氏、土師氏などがあり、秦氏もその一つだったのです。ちなみに、こうした渡来人は、後には日本に土着し、「○○氏」という氏族のまとまりは薄れていきます。こうした意味で、現在の日本人における祖先の一つを担っていると言えるでしょう。
秦氏は、こうした渡来系氏族でも、全国に32カ国81郡に居住が確認される最大勢力と言ってよいほどの大規模氏族(加藤謙吉『秦氏とその民』)ですが、蘇我氏や東漢氏などのように政治の表舞台に出てくることは少なく、養蚕、機織などの職能集団との評価が一般的です。秦氏は秦始皇帝を自らの祖先とする氏族であり、「日本書紀」雄略天皇十五年条には、秦酒という人物が天皇に寵愛され、百八十種勝(すぐり)の絹をうず高く奉納し、「禹豆麻佐(うずまさ=太秦)」という姓を賜った、という記載があります。また『姓氏録』左京諸蕃上・太秦公宿禰条にも、多くの同族集団を率いて渡来し、養蚕、絹織りに携わったとされています。
赤穂市、相生市、上郡町と佐用町の一部を含む「旧赤穂郡」には、秦氏とのかかわりを示す史料が多く残されています。
一つは、平城宮跡出土木簡です。平城宮は710年〜784年にかけて使用された奈良時代の宮都ですので、ある程度、年代の特定が可能です。
木簡1
(表)播磨国赤穂郡大原□
(裏)五保秦酒虫赤米五斗
木簡2
(表)赤穂郡大原郷 秦造吉備人丁二斗 秦造小奈戸三丁斗
(裏)□庸一俵
木簡3
(表)赤穂郡大原郷 戸主秦造吉備人
(□は不明な字)
これらを見ると、木簡1は、大原郷(現在の赤穂市有年原周辺)のなかでも、5戸を一単位とした末端組織「五保」の「保長」であり、それ以外の木簡に記された秦氏は、戸主つまり単なる世帯主であったことが推定されます。
次に、奈良時代から平安時代にかけての、文献記述を見てみましょう。
■天平勝宝5〜7(751-753)年 「秦大炬(おおい)」(『赤穂郡坂越神戸両郷解』)
■延暦12(793)年5月14日 「擬大領外従八位上秦造」「擬少領無位秦造雄鯖」(『石崎直矢所蔵文書』・『東大寺牒案』)
■貞観6年(864)年8月17日
「播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂借叙外従五位下」(『日本三代実録』)
■延久3(1071)年〜称徳2(1098)年頃 赤穂郡司 秦為辰(ためとき)の一連文書
(『東寺百合文書』)
三つ目として、有年牟礼・山田遺跡からは、「秦」と漢字が刻まれた平安時代の須恵器が出土しています。
このように、奈良時代から平安時代にかけて、秦氏は赤穂郡における支配階級及び労働者層としての役割を担っていたことがわかります。
大避神社と秦氏
祭神は秦河勝(大避大明神)・天照皇大神・春日大神。神社の創立時期は不詳ですが、『播磨国総社縁起』によると、養和元(1181)年に祭神中太神24座に列せられ、当時すでに有力な神社であったようです。現在の本殿は明和6(1769)年、拝殿と神門は延享3(1746)年に再建されたものです。拝殿両脇の絵馬堂には40余りの絵馬が掲げられており、中でも享保7(1722)年の舟絵馬は最も古い舟絵馬として貴重なものと言えます。秋に行われる祭礼、坂越の船祭りは平成4(1992)年2月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されているほか、用いられる和船は、昭和60年(1985)に兵庫県有形民俗文化財に指定されています。神門の仁王立像・随神坐像や享保4(1719)年に再建された仏教様式の建物である生島・御旅所などに、神仏習合の名残りを見ることができます。
大避神社のおおもとは、京都市右京区の大酒神社です。この神社は、秦河勝が造立した広隆寺に隣接し、秦氏の本拠地である山背国葛野郡太秦に立地しています。史料に初めて見えるのは嘉祥二年(849)で、祭神は始皇(秦始皇帝)、弓月君・秦酒公。
1979(明治十二)年の「赤穂郡神社明細帳」によれば、大避神社は旧赤穂郡内で21社とされているほか、『相生市史』ではもともと27社は存在していたと記載されています。現在では多くが合祀され、赤穂市内では4社が残るのみです。
4 坂越の名所旧跡
■生島樹林
坂越湾に浮かぶ周囲1.63kmの小さな島で、古来より大避神社の神地として樹木の伐採を禁じられたため、原始の状態をよく保っています。樹種は大部分が常緑樹で、そのなかに落葉樹や草木が混生し、特に蔓生植物が繁茂している点が特徴です。この地域の原始景観や、わが国の植物分布における温帯林の限界をみるうえからも貴重な樹林と言え、大正13年(1924)12月9日、国指定天然記念物となっています。
生島西端山頂には直径約20mの生島古墳があり、大避神社の祭神である秦河勝の墓という伝承があります。島内にはこのほかにも4基の古墳が確認されています。
生島東端の浜辺付近には大避神社の御旅所、船倉があります。
御旅所は、享保4年(1719)12月に再建されたもので、内陣1間半四方、外陣3間四方、立3間の瓦葺の仏教様式建物です。船祭りのときは、内陣に神輿が安置されて神事が執り行なわれます。船倉は元文元年(1736)の建築で、祭礼用の和船を保管しています。船倉と祭礼用和船は、昭和60年(1985)3月26日に県指定有形民俗文化財となっています。
■児島高徳の墓
児島高徳は、『太平記』によれば新田義貞とともに足利尊氏と戦い、妙見寺で傷を癒し各地を転戦し、晩年坂越で没したといわれます。船岡園中に児島高徳の墓と伝えられる五輪塔がありますが、五輪塔自体はその特徴から考えて近世初期のものでしょう。
■妙見寺
真言宗古義派の寺院。寺伝によれば天平勝宝年間(749〜757)に行基によって創建され、大同元(806)年に空海が中興したと伝えます。『播州赤穂郡志』によれば、盛時には宝珠山山腹一帯に16坊9庵がありましたが、嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱や、文明17(1485)年の僧兵一揆により本坊であった妙覚院なども焼失してしまったようです。明応5年(1496)になると乗吽によって再建され、江戸時代には、坂越の港町としての繁栄に伴い隆盛し、現在に至っています。
境内には、近世社寺には珍しい懸造で、平成9年(1997)に赤穂市指定文化財となった観音堂や薬師堂、地蔵堂などが建っています。観音堂は萬治2(1659)年に宝珠山中腹に建立され、「円通閣」とも呼ばれましたが、暴風のため大破し、享保7(1772)年に現在位置に再建されました。
播州赤穂坂内33ヶ所霊場と播州赤穂郡33観音霊場の第1番札所で、周辺には桜の名所で有名な船岡園、茶臼山城跡、坂越浦城跡などがあります。
■妙道寺
茶臼山の南麓にあり、享禄5(1532)年に善祐門徒学西が開基したと伝える浄土真宗本願寺派の寺院です。本尊である阿弥陀仏像は、寛永9(1632)年2月18日に、高砂沖で漁網にかかったものを奥藤又次郎が受けて本堂に安置したものと伝えられています。本堂は享保19(1734)年に、山門は宝暦3(1753)年にそれぞれ再建され、鼓楼は寛保2(1742)年に、鐘楼は寛延2(1749)年に建立されたものです。
■みかんのへた山古墳
小島地区の背後の山頂にある、古墳時代中期(5世紀)に築かれた直径28m、高さ約4mの円墳です。海を一望できる特徴的な立地から、海との関わりをもつ古墳の典型として、昭和50(1975)年、兵庫県指定史跡に指定されました。平成30(2019)年〜令和2(2021)年度には、赤穂市教育委員会によって発掘調査が実施され、正確な規模と形状が明らかになりました。
みかんのへた山古墳は葺石を持ち、2段築成(墳丘に平坦面が一周めぐる形状)の円墳であること、墳丘には円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪・盾形埴輪が並べられていたことが分かりました。墳丘中央では長さ7m、幅3.5mの巨大な墓穴が見つかり、木棺をそのまま埋葬する「木棺直葬」という形式だったとみられます。墓穴は後世に一部乱掘を受けており、乱掘穴から副葬品の一部と考えられる鉄製甲冑(革綴短甲・頸甲)や鉄剣の破片が出土しました。鉄製甲冑は、ヤマト政権から各地の有力者に配布されたものと考えられます。
このほか、すぐ近くで直径11mの小さな円墳(みかんのへた山2号墳)が見つかり、2基の古墳からなる古墳群であることもわかりました。
坂越湾や瀬戸内海を一望できる立地にあること、埴輪や葺石をもつ入念な構造であること、鉄製甲冑が副葬されていることから、みかんのへた山古墳に葬られた人物は、坂越とその周辺の航路や港を管理・掌握し、ヤマト政権と強いつながりをもつ有力者だったと考えられます。
■木戸門跡
かつて、江戸時代には坂越浦の治安維持のため木戸門を設置し、番人を配して夜間(亥の刻)には閉じて通行を遮断したほか、罪人が出たときに門を閉じて検問を強化したと言われています。平成7(1995)年にモニュメント整備が行われ、「木戸門跡広場」として休憩所の役割を果たしています。この南には、正中元(1324)年開基と伝える古刹雲谷山常楽寺があります。
■坂越まち並み館(TEL 48-7770)
まち並み館は、大正末期に建築された旧奥藤銀行坂越支店の建屋を坂越の町並み景観創造の活動拠点として、また坂越の来訪者が気軽に利用できる中核拠点施設として活用するために、平成6(1994)年修景整備した「館」です。季節によりさまざまな企画展示を行っています。
■奥藤家・奥藤家酒蔵・奥藤酒造郷土館(TEL 48-8005)
奥藤家は慶長6(1601)年以来、酒造りのほか大庄屋、船手庄屋を勤めた廻船業で財をなし、金融・地主・製塩・電燈等の事業も興しました。300年前に築かれたと言われる母屋は、複雑な平面形をもつ大規模な入母屋造りの建物で、格式が高く西国大名の本陣にもあてられました。酒蔵は寛文年間(1661〜1673)の建物で、高さ2m余りの石垣による半地下式の構造が今も保存されています。奥藤酒造郷土館は昭和61(1986)年に開館され、酒造用具などの酒造関係、廻船や漁業等の資料が無料公開されています。