◆コラム◆ 赤穂上水道について
赤穂の上水道が、江戸の神田上水、広島の福山上水と並んで「日本三大上水道」と言われることもあるほど、有名なのはご存知かと思います。ただ、その上水道が今も残されていることをご存知でしょうか?
江戸時代がはじまったころ、赤穂に簡易ながらも石垣をもつ城郭が築かれ、武士が集まるとともに、その生活を養うべく城下町がつくられました。しかしながら城下町一帯は、ようやく海から陸地になったばかりで、生活水確保のために井戸を掘っても塩水が出たと言われています。実際、私達が城下町跡を発掘すると、「磯の香り」がすることもあります。
そこで人々は、千種川を約7km遡ったところで川から水路を引き、開渠(蓋がない溝)によって城下町まで導水しました。この水路は、農業用水と明確に区別され、周りに牛や馬を通らせないように、汚さないようにとお触れが出されました。
そして、城下町の北端のところまで来ると、「百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます・もんもんじゃうらおおます)」という2間(4m)四方の石組枡を通し、ちょっとした「ろ過」がされた後、城下町へ暗渠(蓋のある溝)として流されました。
赤穂上水道のすごいところは、ここからです。先に述べた理由から、この上水道は、侍屋敷から町家にいたるまで、1戸ずつに給水されたのです(各戸給水)。
町家への給水管
文献の記述を信じると、こ上水道の取水口となる隧道(ずいどう)の工事は1614年に開始し、1616年に完成したと言われています。赤穂城下町跡の発掘調査で見つかった上水道に関係する遺構では、17世紀前〜中頃の木製角枡が出土していることから、その信憑性はかなり高いと考えられます。
17世紀始め頃の上水道角枡
この上水道は、後に川からの取水口が変更になるなどしましたが、1944年に近代的な上水道施設が完成するまで、300年間以上、利用され続けました。
*
昭和50年代になって、下水道工事が旧城下町内で進むなか、「この上水道遺構を保存すべし」という世論が沸き起こり、神戸大学工学部による発掘調査を初めとした調査が行われ、一部のルートは保存されました。現在も、そのルートはできるだけ残す努力が続けられています。