■赤穂城下町こぼれ話 その4■
これからの発掘調査でわかること
■発掘調査をしていてよく言われるのは、「陶磁器しか出てこない」ということです。確かに見つかるものは、陶磁器が大半です。しかしながらたかが陶磁器、されど陶磁器。わかることはたくさんあります。
■また、「同じものが出てくるので掘る必要がない」ということも聞きます。しかし同じものであっても、掘る場所が違えば、まったく異なる成果になるということをお話します。
■現在の赤穂城は、浅野長直が1648年から1661年にかけて完成させたものですが、実はその間の「公共事業」について、貴重な記録が残っています。それが『年々御侍屋敷其外色々御用定引覚』という古文書です。
■この文書には、加里屋地区について「代官がOOの時、XXな田畑を△△の面積、□□にした」という文章が、134件書かれています。年代は正保2年(1645)〜寛文7年(1667)。藩が関わった工事について述べているので、当時の開発のすべてを示しているのではありませんが、とても貴重な資料です。
■この中に、「中須の田畑を・・」とか「島の田畑を・・」という文章があり、建てられた建物の内容から、その場所が特定できるものがあります。たとえば、ある所を造成したのは1652年、といったように、確実に年代を押さえることができるのです。
■これはとても重要なことです。たとえば現在は、陶磁器を使って時代を決めていますが、この陶磁器の年代モノサシも、よくわからないところがあります。こういった問題に、直接問いかけることができるのです。もしこうした検討ができれば、日本全体の陶磁器研究に寄与することができるでしょう。
今回挙げたことだけでも、異なる場所を発掘してその情報を正確に記録することで、新たな成果を生み出せることがわかります。