■赤穂城下町こぼれ話 その3■
復元できた町家の間取り
■前に書きましたように、赤穂城下町跡は400年間で1m以上の造成がされていました。これは、昔の建物跡がよく残っていることを示しています。
■たとえば明石城下町跡や姫路城下町跡では、大きな造成がされていないために、400年間の地面は大きく変わっていません。つまり、昔の建物跡は調査をしても見つけることが難しいのです。一方、赤穂城下町跡は順々に調査していけば、古いものが見つかります。
■今回報告した調査区は、特に残りが良かった場所で、浅野時代(1645〜1701)につくられた建物跡がきれいな形で見つかりました。それが下の写真です。
■これを測量したのが、上の図面です。
そして私達は、これを元に、町家の間取りを考えます。
■上の模式図が、今回の調査から推定した間取りです(若干縮尺が異なります)。
普通の町家の間取りは、タタミ敷きや板間の「ヘヤ」と、家の中でも土の地面の見えていた「ドマ」に分かれています。そして、この「ドマ」が玄関から家のずっと奥まで通っていることを「トオリニワ」と言い、当時の町家では一般的であったようです。
■上水道が見つかったところには「ドマ」面が見つかっており、それ以外のところには束柱のためと思われる礎石がたくさん見つかりました。また、「町家敷地境界列」と書いてあるところは、現存している宝永元年(1704)の絵図に描かれてある町家敷地の境界部分であることがわかっています。
■発掘すると、当時の建物跡を見つけることができますが、ここまで300年以上前の建物が残っていたのには驚きです。これも、江戸時代の人々が残してくれた遺産の一つと言えるでしょう。